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那覇の料亭

資料で確認できる戦前の那覇の料亭です。


まず6の風月楼
奥武山公園付近の御物城跡で現在米軍施設内ですが道路から確認できます。ここは要人来沖の際の会食など新聞記事等に名前が出てきます。
とんで1の見晴亭
当時海岸線で小高い場所でした。そしてそばには辻、辻原墓地(サンモウジ、潮の崎)が一望できる場所だったことが名前からも推測できます。
2の花咲停、3の三杉楼も要人接待に使われたようです。
4の幸楽、5の一味亭は記事などでは確認できませんでした。
以上の6箇所は那覇民俗地図に記載されている料亭と思われる名前です。図には料亭と記されているわけではないのですが接待等で使われていた記録などから<大和風の料亭>だと思われます。
そのほか明治39年9月の新報記事「市街巡り」には風月楼、玉川屋、いろは屋、明月楼という名前が出ています。また明治41年の新報では「15年間那覇区の発展」と題された記事があります(数字は明治26年から46年)。
 料理店雇い女 0から24
 貸座敷 654から478
 娼妓 1582から799
 芸妓 79から39

辻の微妙な衰退がうかがえるのととあらたに出現した「料理店雇い女」という項目がありました。

辻も接待や地元での会食で使われていたのは確かです。ですが奥座敷に通され、沖縄民謡・舞踊を聴きつつ歓談するというスタイルと大和風では違いがあり、大和風の接待場所が必要であった、もしくは辻に馴染めない人間のための高級な遊び場所として必要であったというのが大和風料亭(以下料亭と略します)の出現理由だと思われます。
辻に馴染めない理由はいろいろ考えられますが大和料理が出ないであろうこと等を考えると財力的理由からも顧客は寄留商人、それに内地の風習に馴染み始めた地元富裕層なのは間違いないでしょう。

昭和の初め頃には辻には約170件の遊女屋、329人の女亭主による貸座敷があったと言われています。その範囲は厳格で辻を越えることはありません。
また大正から昭和にかけて伝統的な名前を大和風に変えるよう圧力がかかり名前を変えてています(たとえば並松楼からサンスギ)。
このあたりは「那覇市史資料編第2巻中7」に詳しく、132ページには終戦直前の辻の屋号付き地図が掲載されています。
辻のすぐ側に三件もあること、そこが接待に使われていること(柳宗悦一行など)もわからないのですが、辻の流れを汲むような料亭でもあったのでしょうか。
根拠はないのですが料理店という名称はほぼ大和の料亭と同義だと思われます。

図では赤の中心辺りが見世前で市役所やデパート・郵便局が集中する当時の沖縄の中心街です。旧藩時代にも役所が集中、そしてそのころから盛んであったマチを引き継ぐかのように廃藩後も寄留商人の商店や地元の小商いはこの辺りに集中します。そして病院や写真館といった新時代の商売もその周辺に位置します。
那覇の繁華街は図で示した道()の周辺です。上之蔵通りには病院・写真館、若狭町大通りの裏手には官舎群と軍司令部、西町には古くからの那覇人、大門通りと久茂地大通りには寄留商人の店舗があります。御成橋を渡れば県庁と警察署があります。
このあたりに勤務するか居住している富裕層(と首里)が料亭を支えていたと思われます。
わからないのは超一等地に存在していた一味亭が(自分の観た範囲では)記録に出現しないということです。
那覇市史資料編の新聞集成は抜粋されたものなので、当時の紙面を読むことが出来れば記事中に名前が出てくることは確実だと思われます。

料亭は値段的にも敷居的にも庶民とは無縁だったとおもわれますが、そば屋やめし屋は繁華街や学校側などで庶民の腹を満たしていたと思われます。大正から昭和にかけての生活の変化は大きく、内地帰りや生活習慣の変化も相まって外食も盛んになってゆきました。
戦後は立ち入り禁止区域と土地返還の事情もあいまって辻の流れを汲む料理屋(栄町)が出現したりします。このへんは別項で追ってみたいと思います。
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家政女学校

戦前は七つ墓向かいに家政女学校という学校がありました。
家政女学校積徳/家政

茶色で現在も確認できる道路、薄い茶色が推定した道路です。破線になっている箇所は確信がない推定箇所です。
七つ墓側の川筋を那覇民俗地図を参考にして集成される以前にしました。ここは現在も元の川側にあった道路がのこっていますからわかりやすいです。

むつみ橋あたりから国際通りの裏側を通る旧道は久茂地小学校まで現在もあります。沖映通りから来た道は久茂地小にぶつかり反転して家政女学校まで弧を描くのですが、反転してからの道は現在影も形もありません(破線にしてあります)。
那覇民俗地図を見ると女学校は修正した川筋のカーブする辺りのそばにあった事がわかります。先の旧道とは別に学校の側を道路が通っていますがその道筋は公園内の道とほぼ同じであると推定しました。先の旧道は確定扱いではない破線にしましたがこの道は周囲の墓跡などから推定するとここを通るしか道がありません。
実際に公園に行ってみるとわかりますが石灰岩に作られた墓が公園内にあります(現状は未確認)。公園の造成中当時の事を憶えていますがかなり大胆に切り崩していました。

国際通りの松尾周辺も破線にしてありますがここは後日。

松山周辺の官舎群

現在の那覇商業高校あたりにあった官舎と学校、それと連隊司令部です。


地図には書き入れていませんが赤が知事公舎および県庁官舎、茶が司令部と司令部官舎。
参考にしたのは「琉球の都市と村落」、那覇民俗地図、うきしま大学の「今残す若狭町古地図」です。うきしま大学は実質的に若狭町の民俗地図なのですが古地図とつくとややこしくなるので以降「わかさ民俗地図」と呼びたいと思います。
「琉球の都市と村落」の図の範囲は県立病院手前あたりまでになっています。その外側と細かい区割り等はうきしま若狭地図を参考にしています。

推定でしかありませんが公の施設や公的施設の敷地は旧士族や尚家のもの、もしくは共有地であった可能性は高いのではないでしょうか。
ちなみに松山の官舎街の後ろには読谷山御殿があります。

堂小・内兼久(久米)

堂小屋敷とおもわれる一帯と内兼久です。
東寿寺(堂小)久米村市場でとりあげたんですが「琉球の都市と村落」の図を参考にもうすこし詳しく書いてみました。
堂小・内兼久

堂小より嘆願(那覇)で、大正2年(1913)に燃えやすい建造物を市街地に建造する事を禁じた新規制に対して資力がないので対応できない堂小屋敷住民が従来通りに扱ってもらえるよう嘆願したのをとりあげました。
具体的には瓦葺きにする資力がないということです。
>これに対し区内久米堂小屋敷及び格子目に居住せる貧民等
「堂小屋敷と格子目」に居住せる「貧民」と呼ばれています。
「琉球の都市と村落」では図の道路のほか敷地も書かれています。今回とりあげた図の範囲では堂小周辺だけ敷地の区割りが細かく、他の敷地と比べると半分くらいしかありません。最も広い屋敷と比べると十分の一程度です。
ただし大通り沿いや東町あたりは堂小屋敷あたりとかわらない敷地面積です。
※図は参考程度の精度です

那覇の観光歴史ガイド本などでは青年会館そばの公園が内兼久跡として紹介されています。
面白いのは水路になっていた箇所が公園より若狭町側では現在の道筋と微妙に重なっています。埋立などでできた土地は基本的に公有地ですから換地や公売など出されない限り区画に影響します。ここもそうなのかなとも思いますが我ながら考え過ぎという気もします。
内兼久は高台だったはずですが整地によって跡形もありません。
松尾山とそれに連なる内兼久山は、那覇尋常高等小学校(沖縄テレビ)、そして裁判所(郵便局)、孔子廟(商工会議所)、そして大典寺のあたりから潟原交番前に連なる丘陵地帯で、そこには松山小学校、県立二高女、県立病院、知事公舎、その他県庁のお偉方の官舎があり、松風の音もさわやかないうなれば那覇の軽井沢的場所であった。
なはわらび行状記 p50、51(省略と編集)


現在は「山」どころか丘ですらないですね。

辻周辺

辻とその周囲です。

辻は海岸側に辻原墓地、西新町とは断崖で区切られています。上之蔵通りとは道が二つだけで、波の上通りに直接出られる箇所は二箇所しかありません。
また図の左下部分の西新町・西本町・上之蔵町と接する部分と西武門には交番があります。小さな道はいくつかあったかもしれませんが街中へ続く大きな道へは交番近辺を通らずには出られません(大回りすれば可能ではありますが)。
辻の中から出てゆく道は6つしかなく、花街のセキュリティの意味もあるのでしょう。
特異なのはすぐ側に通っている上之蔵通りと通じる道が少なく、通じていてもそのまま伸びてゆく道は一つしかありません。

昭和20年でも辻の格子状の町並みはうかがえます。
「琉球の都市と村落/昭和初期の久米とその周辺の景観推定図」では現在の地図上に当時の道筋が書かれておりサンモウジ(三文殊)の公園がスーヌサチの突端だったことがわかりました。
坂道だったはずの上之蔵通り、辻と西新町との境界だった断崖も現在はなんの面影もありません。

上之蔵通り

旧那覇の西武門と石門の間をつないでいた上之蔵通り(茶色)です。
上之蔵通り

西武門の位置は同一ですが現在の通りは辻側によった形で通っています。またこの通りは結構な坂道だったと言う証言があるのですが現在はゆるい坂道になっています。
図の出典は「琉球の都市と村落/昭和初期の久米とその周辺の景観推定図」です。

追記:グダグダ(β) 昭和初期の久米村図

那覇商業通り

那覇商業高校周辺前の通りを考えてみます。
図は現在も位置が変わらず存在している場所や旧跡と昔の道筋(茶・オレンジ・ピンク)です。

グレーが久米、茶色の道より海側が松山町、久茂地側が松下町です。中心の黒い四角が松山尋常小学校で現在の那覇商、Aは跡地が残っている東寿寺(堂小)Bは松山交差点付近と特定されているイベガマです。
この図に現在の道路を重ねてみます。

那覇商の前の通りのスタートは御成橋でゴールは旧久米郵便局横(裁判所)ですがこの二つは位置が変化していません。そして現在の那覇商前通りは堂小(A)と那覇商の間を通っています。

松山・松下をまっすぐ走る松山の通りも昔の道筋とはあまり関係がありません。
現在の通りは一銀通りから久茂地小の側を通りまっすぐです。この辺りで変わらないのは久茂地小(那覇の大あむ屋敷跡)、イベガマ跡(B)です。久茂地小の前の通りから渡っていた久茂地橋は一銀通りを通って渡るように変わっています。その辺を頭にいれて線を引くとだいたい図のようになります。

若狭町大通りは現那覇中の久茂地側を通っていましたが、戦後の区画整理で海側を通るように改修されています。戦後埋立するまでは現在の那覇中の向こう側は海でした。
若狭町は戦後都市計画により再開発されているので昔の面影はほぼありません。

龍界寺小路・善興寺坂

「なはわらび行状記/船越義彰」の「三輪車」と題された箇所から。
龍界寺小路・善興寺坂
善興寺坂--そこはいまのどのへんだろう。郵政管理事務所と、天妃校を結ぶ線のあたりに坂があった。天妃校からおりると左手に一味亭という大和料理屋、右手が善興堂病院、少しおりて右が龍界寺小路、千原繁子先生の病院と川田のクスリ屋があった。そして龍界寺小路をはさんで市公会堂、公会堂と向かい合ったところ、つまり善興寺坂からおりてきた左手に、戦後米民政府が土地事務所として使用していた、いまの郵政管理事務所の古い建物(戦前逓信といっていた建物)があった。
(略)
善興寺坂の三輪車疾走は主としてハジメーと一緒だったが、同級生の仲元君や金城君とも行ったような気がする。(略)ところでハジメーだが、戦後一度も会わなかったのでひょっとしたら戦死したのではないかと思っていた。それが、つい先日ハジメーの妹のアイちゃんと石川で会った。四十年ぶりにである。そしてアイちゃんの口からハジメーが沖縄戦で戦死したが、戦死の場所も不明であることを聞かされた。
なはわらび行状記 p23、24


ハジメー... 共に那覇に産まれ育ち東町近辺を走り回っていた少年達の明暗を分けたものはいったいなんだったんでしょうか。
図の中でオレンジで示されているのが善興寺坂、紫が龍界寺小路です(出典:那覇民俗地図、琉球の都市と村落/高橋 誠一)。
那覇民俗地図では龍界寺小路はユーゲースージと書かれていますが、リュウカイジスージがユーゲースージになるのはナーファンチュのだらだらした喋り方を考えれば納得できます。ナーファンチュに「リュウ・カイ・ジ・スージ」なんてハキハキした喋りを期待するのは無理で、ルーカイジスージになってユーゲースージに変化してしまったんでしょう(笑)。

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