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仲良橋

市民の友1959年4月15日(第102号)に仲良橋の完成記事がありました。

「仲良橋」完成
前島-牧志を結ぶ幹線道路
前島-牧志の久茂地川に架けられる橋梁工事(長さ12米、巾員12米)は4月10日完成した。この工事は市の59年度予算で、泊港事務所前から前島小学校を通り牧志通り(大見病院通りから国際通りに通ずる)間の久茂地川と安里川の交差点近くに架けた橋で昨年12月4日宇良組(代表者宇良宗四郎氏)の手で工事が進められ5月10日完成予定のところ1ヶ月も早く完成したもの。
これで1号線と国際通り間に(今までは御成橋と久茂地橋の二つだけ)橋が一つ増え車両のみではなく、前島一帯の市民や前島小学校への通学に非常に便利になった。
この橋の名前については前島小学校長名渡山○秀氏、PTA会長高良嘉永氏等が自発的に同校学童や学区市民から募集したところ多数の応募があり、学校職員、PTA評議委員会の審査の結果、市の発展と市民の親和を意味し、学童の通学路ともなる意味で学童にも親しめる橋名ということで「仲良橋」と決定、その旨市長陳情がなされて来た。市当局としてもこのような自発的な市民の意思を尊重して「仲良橋」と命名した。
※○は不明文字/兼か?
市民の友 1959年4月15日 第102号(抜粋と編集)


1959(昭和34)年ですから戦後14年も前島と牧志の間には橋がなかったんですね。戦前には前島板橋小(メージマイタバシグヮー)という橋があったようです。
仲良橋(前島)
少し驚くのは59年にはこの近くで久茂地川にかかる橋が御成橋(久茂地)と久茂地橋(久茂地小そば)しかなかったことです。昭和中期のゼンリン地図で橋を確認してみるとバツ印を付けた箇所には橋が架かっておらず、青で印をつけた場所には橋が架かっています。

仲良橋が「なかよしこよし」の仲良だったとは思いもしませんでした(笑)。
ちなみに工事費は一万ドルだったそうです。
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一銀通りの切り通し造成

一銀通りの補記として。

茶色が那覇民俗地図にある旧道です(といっても新県道が存在する昭和の初め頃)。
図の右下から国際通り(新県道)に向かってくる道筋はほぼ同じ、国際通りを横断し久茂地小学校に至る道もほぼ同じです。那覇高校から松尾消防署の道筋が拡張され車両対応されたのに対しそこから先は拡張されませんでした。松尾消防署側からまっすぐくるとまっすぐではなく斜めになるように道が繋がっていますが、これはまっすぐ進むと丘になっていたためだと思われます(現在も裏手には墓があります)。
一銀通りには丘を切り崩して道を通す切り通しによって作られた箇所がありますが、それは国際通り裏手の墓のある一帯から連続しています。

「市民の友」107号(1959年8月)には一銀通りの切り通し工事中の写真が掲載されています。
一号線と国際通りとを結ぶ都計幹線道路として丘を切りくづし、見事な舗装道路になった一銀通り(59年6月25日完成)
市民の友 1959年8月1日 第107号(抜粋)


現在も一銀通りを国際通りから進むと左手は高台になっていますし、信号がある交差点から左折して少し進んだあたりの裏手は墓地のままです。
一銀通り周辺で面白いのは、旧道が車両対応になったところとそうでないところが対照的であること、拡張されなかった久茂地小側は橋の位置まで変わったこと、そして現在と過去では道の意味合いが切り放されかつて連続していた道だとと考えにくくなっていることとでしょうか。
一銀通りは松尾消防署裏に新しい道が作られて那覇高校から直線だけで繋がるようになったので余計に昔の道筋を考えるのが少し難しくなるでしょう。

那覇市役所の位置(戦後)

那覇市役所の戦後編です。

先遣隊那覇へ 1945年11月10日、国頭の避難先から陶器、瓦工業をおこし、那覇の復興をはかるため103人の先遣隊が壷屋に入る。
壷屋に区役所 46年1月3日先遣隊の家族も集まり壷屋区役所をおく。
壷屋区を那覇市へ 1946年4月4日、壷屋区を那覇市に昇格。初代市長に当間重剛氏を任命、戦後の都市行政がスタートした。
市場敷地に天幕 1947年1月、牧志町の現市営市場敷地内に天幕を張り、仮市庁舎とする。
仮庁舎を移転 1948年11月、台風被害により樋川の開南小学校内の仮庁舎に移転。  
コンセットで執務 1949年4月、仮庁舎を牧志の現グランドオリオンの敷地に移転、コンセット2棟を設置、執務体制を整える。
かわらぶきの平屋 1950年4月、コンセットをかわらぶき平屋に拡張改築し、都市計画行政にそなえる。
天妃小学校に移転 1953年5月、都市発展と行政規模の拡大により、旧天妃小学校に移転。以降13年使用する。
市政の殿堂完成 1965年9月18日、地下一階、地上5階、一部9階の鉄筋コンクリートで市庁舎を完成。盛大記念式典と4日間にわたって祝賀行事を催す。
市民の友 1965年9月15日 第181号(省略と抜粋)


泉崎の現敷地の他には与儀公園なども候補に挙がっていたようです。与儀公園近辺は官公庁街になる可能性もあって、電電公社、郵便局、南方連絡事務所(Wikipedia)などもありました。みんな移転してしまいましたが琉大病院や那覇病院などもありました。

那覇市役所の位置(戦前)

市民の友に那覇市の役所の移り変わりがまとまっていたので抜粋します。
1965年の第181号は新庁舎落成記念号のようになっています。

那覇市のあゆみ
親見世 旧藩時代の那覇四村・西、東、泉崎、若狭の行政全般を管理した。
親見世役所 明治11年4月、西本町4丁目の旧里主所を親見世役所とした。同年12月、親見世役所内に、久米村役所、泊村役所をおき明治13年2月両役所を合併した。
那覇役所 明治13年6月、親見世役所を那覇役所とした。大門前の海岸通の埋立地に、西、東、泉崎、若狭、久茂地、久米、泊の順で、一棟の家屋を仕切って、各村は事務をとった。
那覇区役所 明治29年上之蔵1ノ4に那覇区役所をおく。その都市、勅令第19号により沖縄県区制を施行、27名の議員を選挙那覇区会を設置、自治体としての行政がはじまった。区役所は、島尻郡役所のなかにおかれ、口調は斉藤用之助島尻郡長が兼任した。明治41年、勅令第42号により、区制が大幅に改善され区長は官選から民選になった。 明治43年、那覇区会は、郡役所の建物と敷地を8800円で買収することを決議、島尻郡役所は若狭町に移転した。
庁舎を建設 大正8年、当間重鎮区長の時代に、庁舎を建設した。設計は京都大学教授武田伍一工学博士。
那覇市役所 大正10年5月20日、沖縄にも一般市制が施行され那覇市となり、都市行政がはじまった。
空襲で焼ける 昭和19年10月10日、米軍による大空襲で市庁舎は焼失した。
紅房に移転 市庁舎が焼けたので、真和志村古波蔵3061の「紅房」に移転した。
役所を分散 昭和19年11月戸籍課を牧志町2の4に、勧業課、衛生課を壷屋町2丁目に分散移転した。
民家を借りる 昭和20年2月真和志村安里の民家に移転。
市役所を解散 戦争が激しくなり、昭和20年3月23日、市役所を解散した。
市民の友 1965年9月15日 第181号(省略と抜粋)


以前まとめたものを再掲しておきます。
1879年(明治12年) 沖縄県庁を設置。以降沖縄の行政の中心に。また、それまで那覇四町と呼ばれていた西・東・若狭・泉崎へ、新たに泊・久米・久茂地を編入。
1896(明治29)年 沖縄県区制の施行により、那覇区となる。
1896(明治29)年4月1日 郡制施行に伴い、島尻方(真和志間切・小禄間切(略)17間切7島
1908(明治41)年4月1日 島嶼町村制施行に伴い、島尻郡に糸満町(兼城村から分立)と真和志村・小禄村(略)1町22村2島
1921年(大正10年)5月20日 特別区制を廃止し、市制を施行して那覇市となる。
グダグダ(β) 那覇はどう変わったか(63年) 3


那覇市のサイトにある歴代市長は市制施行(大正10年)以降のみですね...

http://www.city.naha.okinawa.jp/mayor/rekidai/index.htm

スラム街地域調査

1962年3月1日付の市民の友にはスラム街実態調査の記事(予告?)があり、3月15日に行うという予告と地図が掲載されています。
その図の範囲は下の図のようになっています。
※牧志ウガン後方は書かれていませんがここもなかなか解消しなかったスラム地域です

6、7、8、9区を中心とする旧那覇市内には木造低層の建築物、つまりスラム街が集中し、那覇市の都心部ともいうべき市街地は、住宅や商社が平面的、無秩序にのびており、そのため、道路、上下水道、都市広場などの都市施設が設置されていないので、防火防災、郵便配達がスムーズにいかず(略)
市企画室ではスラム住宅の多い市内6区、7区、8区を中心とする約4200世帯について来る[62年]3月15日から、総合的な住宅実態調査を実施することになりました。(略)
なお、来る3月15日から実施するスラム街実態調査は、スラム街地域における人に、世帯を確実に把握し、住宅や敷地の所有関係建築物の構造等について総合的に調査するが、調査の結果についてはスラム街改造計画の資料以外に利用するころは絶対にないので、市企画室では調査の対象(別掲地図参照)となる市民のみなさんの積極的なご協力を希望しています。
市民の友 1962年3月1日 第139号(省略と抜粋)


紙面には視察を行う西銘市長の姿やスラム街の風景が掲載されています。下の写真は市民の友にも同じものが掲載されていて「ここは郊外の農村部落ではありません。国際都市といわれる那覇市のど真中にまだこんな住宅が残っているのです。(那覇市消防署松尾出張所裏一帯)」とキャプションがついています。
松尾消防署裏一帯
同じ写真の高解像度版は以下アドレスで見られます。
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1786

市民の友148号(63年1月)にもスラム街について触れられています。

[企画部長]大局的に見ますとスラム街化した地域は市の全域に散在していますが、とりあえず防火、防災、都市美のうえから不良住宅が集中的に建っている都心部、すなわち松尾消防署裏から刑務所裏にいたる6区から9区のおよそ8万坪、3700世帯を事業対象に指定し、すでに住宅構造を中心とした総合的実態調査を実施し、現在は土地の調査測量を行っています。この二つの調査に基づいて、土地の利用計画をたて適正な街区を造成し、近代的な住宅建設、すなわちスラム街の解消に着手する考えです。
市民の友 1963年1月15日 第148号(省略と抜粋)


1962年の間に調査が行われていたことや調査が続行中であることなどがわかります。

西新町にあった施設

西新町にあった施設の写真を見てみたいと思います。 西新町は1、2丁目がフルガタ(古潟?)、辻側の3丁目がミーガタ(新潟?)と呼ばれています。
写真は総て「昔の写真と資料」さまよりお借りしています。m(_ _)m
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de
西新町
まず3丁目の大正劇場(左)と偕楽軒(右)です。この劇場は真教寺から少し海側に行ったところにありました。偕楽軒は西洋料理店です。
大正劇場偕楽軒
そして大阪商船株式会社。こちらの出島のような二つの島は通称フルガタ(古潟?)です。埋立の順番による名称だと思うのですが根拠は今のところ見つけられていません。
大阪商船那覇支店
位置は那覇民俗地図を参考にしています。

西新町に見える施設は他に以下のようなものがあります。
•硝子工場、三丁目クラブ、宝来館、南陽旅館、日の出自動車、当間タクシー、金城組(建築業)、旭商会、日本共立生命(以上ミーガタ/3丁目)
•通堂倉庫、沖縄製糖会社、野間商会、平良製材、十倉鉄工所、早瀬川造船、西クラブ、昭和自動車、東自動車工場、共和商行、友寄仕立て屋(2丁目/フルガタ)
•百四十七銀行倉庫、税関、水上警察、沖縄無尽、那覇商運組(1丁目、フルガタ)
これらは「那覇民俗地図」と「昭和初期の那覇市街図(国場組社史)」を参考にしました。

ほかには花月(楼)[写真下]も西新町にあったようですが、こうして見ると埋立地はなかなか賑やかそうですね。
花月
花月 和洋料理店
本店 那覇区西新町三丁目
那覇区における四大料理店の中(略)同店は元埋地の一隅に極めて小規模のものを設立せるに始まり、このあと数年を出でずして大発展を来し、新埋地なる海岸に宏壮精麗なる数棟の建築を起し、(以下略)

泊港南岸埋立地

泊港の南岸の埋立地に移り住んだ人達の移転図ですが、主に牧志街道関係者と美栄橋関係者が移り住んだようです。
前島移転地
現図は那覇市史p601の「泊港南岸埋立地区計画図」で「(一九五三年市議会に関する書類・議決通知 企画部総務課)」という付記がついています。
1953年時点ではまだ移転は完了していないので予定地になってますね。

牧志街道は国際通りのことで、
1953年から1954年にかけて改修工事が行われ、その後、多くの店が立ち並び、発展してきました。
http://www.uchinajoho.com/okinawa/kankochi/hontounanbu/nahashinai/kokusaidori/kokusaidori.htm

とありますからこの改修工事で立ち退きになった人達に用意された土地が泊港南岸埋立地(重民町)だったんでしょう。しかし当時の前島はひどい土地だったらしく陳情もいろいろされていたようです。

【追記】
都市の整備でも、54年12月5日に牧志通りの開通式があり、55年2月28日には又吉道路も開通した。55年1月19日に泊埋立地に垣花区民120戸の割当があり、56年11月19日に若狭町埋立地に市営住宅が完成した。
那覇市議会史 第5巻資料編4 「議会の記録」アメリカ統治期(合併前) p12

島小(前島)

前島の長虹堤付近、前島一丁目は島小(シマグヮー)と呼ばれていました。
図は「戦前の牧志町民俗地図」、泊前島誌(p371)に掲載されていた島小周辺要略図(戦前)、那覇民俗地図を参考にしています。
島小図
前島板橋小がありませんがオレンジの部分が前島の島小です。となりの牧志町とは長虹堤を境にしています。
前島の島小
ムチャーはモチ屋、餅ではなく漆喰のモチがなぜか何件かあります(シックイとも書かれている)。そして美栄橋のそばには三坂鉄工所(三坂ナービヤー)がありますが鍋とか家庭用品作ってたんでしょうかね。


「沖縄県歴史の道調査報告書 〈4〉 島尻方諸海道・首里・那覇の道. 沖縄県教育委員会」に島小の記述がありましたので引用します。
左図は69年のゼンリン地図を参考にして島小周辺の道を書き込みました。右図は今も残る溝()と推定した暗渠(水色)です。
島小の入り江 
(崇元寺から橋を渡って直進してきて)十貫瀬飲食街をしばらくゆくと右手にバーPとRRがあり、その間に久茂地川沿いの道路とT字型に交差する道がある。反対側の左手のT洋酒店の側にはやや大きな溝が流れ、道路の下に暗渠を設けて久茂地川に排水している。この右手の(略)T字型道は、昭和4年の「那覇市全図」では久茂地川の入り江になっている。明治10年頃作成の「琉球那覇港及び首里城間之図」では、この入り江はさらに深く入り、現在のダイナハの東側のガーブ川に通じる川になっている。
沖縄県歴史の道調査報告書 〈4〉 p133 (部分的に編集)


浮き道であった長虹堤は明治の時点で消えていたようです(南島風土記)。

今はこの辺一帯に民家立ち並んでいるが、最近までも左右田圃の相田を4、5尺の高さで走り、浮道の面影をとどめていた。
南島風土記 東恩納寛淳

私が現在の那覇中学校の地点にあった那覇市立商業学校(旧制)へ、首里から約一時間くらいを要して、徒歩で通学していたころは崇元寺橋(安里橋)を渡って、牧志の一角に入ると、そのあたりは瓦屋(カラヤー)らしく、民家の軒下には、板のように薄いウミイサー(珊瑚石)だのムチ(しっくい)に混入する切り刻んだわら等が、こんもりと積み上げてあって、一種独特なその蒸れる匂いが、むんむんと鼻をついてきたものだが、大体この辺からは、昔、浮き道、あるいは長虹堤といって海中道路の形をなしていた。
高さが約2メートルに、道幅がほぼ3メートルぐらいある浮き出た道路の北側は海水にひたされ、干潮時には、それが塩田に早変わりするし、南側は一面陥没した畑になっていて、この辺一帯、昔は海であったという名残りをとどめていた。(中略)
七つ墓のある丘陵の裾あたりに美栄橋が築造されていたが、この美栄橋を渡ると、北側は埋立地の前島町、南側が久茂地町の新村渠(ミーンダカリ)で、この辺には、ウコーヤー(黒く平たい線香作り)だの表具師などが、軒をならべていた。
琉球怪談選集 沖縄文教出版 1973年



島小周辺を写真で見てみます。


ガーブーと入り江は黄色い線で囲いました。残念ながら自分の目では入り江とガーブーの間につながりは見えません(時期的にも遅いはず)。

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