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才の神(セーヌカン)

さて那覇の西町と東町の地は埋立で人口が増えてきた。その土地に首里の巨刹とちがって小さい祠堂がある。恵美須堂・薬師堂・荒神堂、さらに久茂地に才の神(セーヌカン)・湧田の地蔵堂などがあった。この中で湧田の地蔵堂は三叉路の中央にあって赤瓦屋根の中央に擬宝珠をのせた八畳間くらいの平屋だった。正面と左右をあけた石壁で囲まれた中央に石の円柱が立って上部は大きく六角形に切りとって屋根裏を支えている。大正の頃までは数コの石欄と石階も三段はあった。(略)
荒神堂も移築したから元の姿はわからない。同時にこれらの祭祀の模様も不明のままである。渡地の遊郭からも拝んだというが、二十日正月のジュリ馬の頃で沖縄の方法でビンシーで拝んだという。従ってこれらの夷神や三宝荒神などの信仰が根付いたかどうかもわからない状態である。才の神に至っては塞の神ときいたが、石だか石敢當だかよくわからないという。以上の信仰の定着は不明だが、名称が地名や屋号みたいに残っている。例えば「堂順の仲村渠」「堂ヌ前ヌ岸本」「地蔵仲地」「荒神ヌ前」などといっている。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p67


才の神(セーヌカン)と荒神堂はここです。
才の神・荒神堂
恵美須堂(夷堂)は大正の仮屋の前を参照して下さい。
「カルテの余白」に才の神近辺の様子が書かれてあるので引用します。

明治39年、才の神のランプ屋といえば有名で、若狭町から夕方ホヤ一つ買うにしてもそこまで走らなければならない。那覇で唯一のランプ屋で、片手間にちょっとした学芸品も売っていた。そこの長女うめのは松山小学校の同級生で(略)
裏にいるというトウチャンの返事にまわって行ったら、オッカンが高い岩の裾の、子供が一人立って入れそうな穴に向かって線香を立てて口の中でブツぶつ言いながら拝んでいた。穴の中には石ころがあった。「オッカン、それは何?」と質問をしたら「セーヌカンのウカミだよ、拝め」と言った。余談となるがこの店のトウチャンは沖縄に素手で渡り、飴の湯をかついで売り出したのを振り出しに、ランプ屋を始めてから成功し、後日、昭和の初めには大門通りに手広く雑貨商をやるようになったが、あれから二十何年経っていたのでうめのの姿はなかった。
カルテの余白 p47、48(抜粋省略)


那覇まちのたね通信 | 那覇(商店)/福田商店/戦前/サイノ神下/(1917年頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1015

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