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前島板橋グヮー

前島と牧志の間にあった前島板橋です。
前島板橋

ピンクで塗りつぶされたところが板橋で、戦前は現在かかっている橋(仲吉橋)の位置よりも少し美栄橋側にありました。当時は現在の位置に橋は無く、前島牧志間はこの板橋のみで結ばれています。
※この図は正確ではなくもう少し崇元寺よりのようです。
崇元寺橋と中の橋はほぼ現在位置ですが少し違っているようです。
板橋と崇元寺橋について追記しました。(2010.12.10)

安里川埋め立て図で少し言及しましたが1950年代に安里川両岸は埋立整備され川幅が狭くなっています。
安里川埋立図
最初の図で右上にある地図の部分は近年行われた安里川横を通るバイパス道路の開通以前の地図です。このバイパス道路はひめゆり通りから壷屋小学校横を通り、牧志ウガン横から前島へと直線的に結んでいます。大きく変わったのは現在の地図で赤く強調されている川の分岐点を斜めに渡るような道路です。
ちなみに工事以前に前島に行くには川のそばにあった細い道路から仲吉橋に渡っていました。

参考にしたのは那覇民俗地図と「戦前の牧志町民俗地図」です。
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浮島(那覇)

58号線から向こう側、浮かぶ島であった那覇をたどれるか試してみます。
浮き島1
図の左側は古海岸線です。長虹堤の建設以前なので土砂が堆積していません。
右側はそれから暫くたった図です。前島の潟原も半陸地化し久茂地周辺も内海というより川の流れに近くなってきました。
浮き島2
左は現代の那覇ですが前島潟原より海側と西新町を海に沈めてみました(笑)。西新町は最も古い時期に行われた埋立で昭和にはすでに陸地です。前島は戦後の埋立で、夫婦岩が陸地になったのも戦後です。

古い浮島の輪郭をたどってみると、夫婦岩が海中、波の上の崖は昔から変わらず、辻山は三文殊(サンモウジ)を含む小高い墓地地帯だったのが戦後平坦に造成され外側が埋立、という感じで輪郭を描けます。
現那覇商業高のある丘と向かい側の公園に続く高台は海没したことがない高台です。同様に辻山、波の上のそばの旭が丘も高台です。
雪の崎(ユーチヌサチ)、スーヌサチ(塩の崎?)も変わりません。

一番最初の古海岸線の高台を中心として現在の若狭、西町は土砂が堆積し緩やかな平地。
内海だった現久茂地川流域は土砂堆積での陸地化なので周辺は河原の地形。
河口に当たる東町、通堂、渡地は、浅瀬・小島が久茂地川と国場川による土砂堆積で陸地化。
全体的には旧浮島とその周囲に広がる浅瀬・珊瑚礁が川による土砂堆積で陸地化し、お互いにつながり面積拡大していったという流れです。

久米にあった流れ

那覇民俗地図に存在する水の流れを書いてみました。かなりいい加減です。
※追記訂正し図を差し替えました
詳細は久米にあった流れ 2を参照して下さい。
(2010.12.14)

久米の溝

昭和の初め頃には久茂地川のクランク状に曲がる部分に久米から流れこむ水流があります。民俗地図では孔子廟(明倫堂)のそばを通りパブテスト教会のそばで曲がって終わっています。
この流れのそばにはメソジスト教会、那覇キリスト教会、パブテスト教会(善隣幼稚園)とキリスト教関係施設が三つもあります(紫の十字架で図示)。

また旧浮き島たる那覇を想像してみると、松尾山・内兼久山・辻山の高台と低地の久米が湾状になった島がこのあたりにあったことが解ります。
那覇の古海岸線



那覇港

pdfの紹介です。那覇港の成立と その機能維持
そして引用。

それによると、人々が那覇港の上流(国場川・饒波川)で木々の伐採・開墾を行い田地を開いたため、川筋も変わり、土砂が那覇港に流入している、と述べている。この状況を受け、中国からの冊封(1719年冊封使来琉)を控えた国王尚敬は、家臣に那覇港浚渫を命じた。
工事は那覇港上流の田地を廃し、川底の泥土を浚い、川筋を元に戻した。次に渡地から三重城との間に5つの橋を架け、「西の海」 現(西2・3丁目付近、明治20 ∼ 30年代にかけ埋立)と港内の潮の流れをはかった。さらに、久茂地川に架かる橋を改修し、上流からの水の流れをよくした、とある。特に橋の築造は泥土堆積を防ぐのに効果があったようで、前述の『那覇築港誌』には、明治 40 年の工事着工以前の那覇港の様子を
「(渡地から三重城に突堤至る浮道)を築き、水路を狭め、水準を高め、流力を大ならしめ、潮流の作用に依り、上流より下る土砂を港外に流出せしめ、以て其湾内に沈殿するを防ぎ」
と述べている。


引用部分は意味を損ねないようにかなり省略してあります。
なんで引用したかというと当たり前のことなのに思いつかなかったことがありまして、それは「水路を狭め、水準を高め、流力を大ならしめ、潮流の作用に依り、上流より下る土砂を港外に流出せしめ、以て其湾内に沈殿するを防ぎ」ってとこで、そりゃ水路を狭めりゃれば流れが速くなって泥は沈滞できないわな!といまさら驚いたわけです。
それとpdf内の図を引用しておきます。
那覇港(1700年)

安里川埋め立て図


那覇市史にあった安里川埋め立て地の図です。
北岸3451坪、南岸4472坪がこの埋め立てによって作られたそうです。安里川の幅を詰めて作られたのでこの埋め立て地の輪郭がだいたい安里川の旧流域ということになるでしょうか。中の橋から海側は潟原ですからそのあたりは正確には川ではありませんが、潮に晒され埋め立てしないと利用しにくかった地域ということで参考になります。
以下この地区の区域変更申請を那覇市史より抜粋して引用します。

安里川南北両岸の泊高橋より崇元寺までの細長い地域で、河川工事により造成された埋立地である。
 一九五六年六月三十日安里川下流埋め立て改修工事として市土木課が直接施工した護岸および埋立工事で宅地造成を完了した。埋立完成後も地形が不整形なため利用度が低く、施行中の区画整理地区との関連性もない現況であるし、また前面河川の利用度および同地域の発展が少なからず阻害されている。
 南岸埋立地は一九五八年十月二十一日那覇市の所有地として登記も完了しているので、この際南北両岸の宅地を現施行中の区画整理事業区域に包括して又吉道路・中之橋及び河川道路と連結し、準工業区域として発展を図りたい。
那覇市史 p639

旧那覇地区の解放順序

1946
1945年に壷屋、1946年に牧志(一部を除く)が返還されました。
1951年までの解放区域
1951年に辻、若狭、松山、松下、美栄橋、久茂地、久米、天妃、西本町、牧志の一部が返還されました。

1952年に前島、西新町、東町、若狭の一部が返還されました。

この図は旧那覇市で1952年までに返還された区域の図で、ピンクの線は真和志市との境界を示しています。
参照元は「那覇市史 資料編第3巻の1」のp12.13にあった「旧居住地の返還図(一九五二年まで)」です。
注意して頂きたいのはこの図もまたいいかげんだということです(すみません)。とくに松下・松山のあたりはでたらめに近く、天妃・久米・若狭・辻も境界を特定できる材料がなかったため気合いで書きました。
まぁ返還された面積と場所が大まかに参考になる程度でしょうか...

※旭町についてはまだ確認できていません
※追記しました -->(旭町の解放時期2011.05.31)

図を追加しました(2010.12.06)
那覇返還
旧那覇市街西側

兼久・前島・泊

兼久・前島・泊周辺の航空写真と地図です。
地図が昭和初期、航空写真が米軍撮影の昭和20年になります。写真は干潮時でしょうか?

安謝川の現在との幅の違いがよくわかります。
戦後暫く経って解放された土地のパターンで泊・前島ともに区画整理されているので旧道と現在の道に関連性がほぼありません。泊は米軍が土地をならしてしまったため名前のついたポイントが跡形もなく消えてしまっています。

※2011.02.10追記
旧道と現在の道に関連性がないというのはまちがいです。わずかですが一応関連性はあり、まったくの無からの開発はありません(天久新都心が無からの開発に近いとは思いますが)。

兼久(前島)

カニクです。過去に兼久というのを書いたのですが... ともかく前島の兼久、塩田だった兼久です。

図は「わったあ兼久/知念良雄」付属図を参考に作成。
兼久は安里川河口の泊高橋交差点脇ですね。那覇の全体図では中央上部の道路が横断している水色の部分になります。

この図でも少しわかりますが、泊高橋以北の昔の道は58号線よりかなり西側を通っており、現在の58号線の上之屋のあたりは泊旧集落の上を通っています。ゆえに泊高橋も現在より海側に架かっています。
そして道筋の細かな違いや兼久集落まで58号線が飲み込んでしまいました。

兼久・前島・泊は戦後米軍の物資集積所や部隊が駐屯し1955年の解放まで暫く待つことになります。その間この地域の米軍は朝鮮戦争(1950 -1953年)のバックアップをしていました。

1947年
1月 寄宮十字路の東側一帯と安謝部落に居住許す
1954年
1月 泊埋め立て地落成
壺川、久茂地、若狭の軍用地2.4万坪解放
具志、宮城両部落の軍用地一部解放
4月 辻町の一部解放
1955年
5月 前島町の軍用地5万坪解放
6月 旧泊、古島区2.4万坪解放
1956年
4月 泊二丁目解放

立ち入り制限(2)より

米軍が埋めたスクラップで大もうけとかそういう話もあります。

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