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料亭那覇の旧位置

左は戦前の地図でのダイナハ付近、右は1977年の空撮に左と同じ道筋を加筆したもの。
写真は国土交通省のもので加工は自分の手によるものです。

http://nrb-www.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C58&IDX=7&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19

ダイナハ(現ジュンク堂)のあたりには料亭那覇がありました。赤線は消えた道と橋、ポインタは料亭那覇のそれぞれの推定位置です。

昭和25(1950)年 那覇市ガーブ川沿いに「料亭那覇」を新築移転
グダグダ(β) 上江洲フミ(料亭那覇)


最後の図は1956年の市民の友(第57号)の記事「むつみ橋より前島町に至る重要幹線道路の工事計画」に添えられているものを参考にしています。記事によると旧市内への誘致策として作られたようで、1956年1月着工で6ヶ月の工事期間を予定していたようです(57号は元日付)。
市民の友の図ではっきりしているのは、ガーブ川の曲がり角付近まであった川沿いの道を直線的にしていること、その道路予定地の上に料亭那覇があること、川の向こう側の道はおおよそ戦前と同じであることです。略図に近いものなのではっきりとは言い切れませんが位置などはほぼこの通りだと思います。
まちのたね通信には写真もあります。

那覇まちのたね通信 | 那覇(ガーブ川)/ガーブ川改修工事(現・ダイナハ附近)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1682


那覇まちのたね通信 | 那覇(ガーブ川)/改修工事中のガーブ川下流/中央右寄りの木造赤瓦2階建ての建物は料亭那覇。現在のダイナハ附近。/(1956)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1693
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儀間商店

「昭和初期の那覇市街図」には大門通りちかくに儀間商店があり、この儀間商店は後年のGIMAかとも思いますが関係ははっきりわかりません。
大正14年の新聞広告から。

新茶入荷
製造元 支那福州南台 太吉洋行
販売元 那覇市東町郵便局向フ大通リ○[※○に吉]儀間商店



図は「昭和初期の那覇市街図」を参考にしました。現代のGIMAの沿革を見てみます。

昭和8年5月 創業
昭和27年4月 合資会社儀間本店設立
沿革|GIMA | ジーマ株式会社|総合卸売業


新聞記事は大正14年で創業は昭和8年ですからハズレかと思われるのですが、こだわってるのは儀間家はクニンダなんですよね。なので久米あたりに土地があるのもわかりますし、泉崎交差点のホテルの土地は確かGIMA所有だったはずです。
話変わってその土地に関して。

那覇市久米町に門中の祠堂がある土地1800坪を、門中の宗家である儀間家が同家の所有地として登記した。これを不服とする中宗家が訴訟を起こした。那覇地裁・高裁とも“門中は権利能力なき社団”であり、土地の所有権は門中側にあるとして、中宗家の訴えを認めた。
儀間家は納得せず、土地の所有は宗家にあると上告。今年2月、最高裁は「門中には明治時代財産管理に必要な諸機関が置かれ、重要事項は門中の長老が集まって決める慣行があった。祭祀やこれに付随する事業を行っている」などの点を挙げ、二審(高裁)を支持した。
戦後の沖縄世相史 p154、155 (抜粋と編集)


門中の土地は誰のものかという戦後にありがちなもめごとなんですが結局門中のものということになりました。
まとまりがないな...

子供博物館?

60年代中期の地図には現緑が丘公園内に子供博物館という建物があります(左図)。

右は国土交通省の1977年撮影の写真を自分が加工したものです。
国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C58&IDX=7&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19


オレンジがパラダイス通り、ピンクは川沿いの道、緑が公園内を通っている道になります。ポインタは山形屋です。
子供博物館というのは過去存在した建物で別名ペルー館とも呼ばれていましたがいまのところはっきり場所がわかりません。緑が丘公園の敷地内の小高い場所にあったらしく、戦後早い時期に建てられたそうです。

最初の図で赤く示した箇所は子供博物館となっていますし、1977年の写真にも写っています。しかし子供博物館はわりと早く取り壊されてしまったはずなのに77年撮影の写真に建物が写っているのは解せません。そして自分の記憶ではこの建物はPTA会館と呼ばれていた気がします。
結論はありません...

【追記】69年ゼンリン地図にはペルー館として存在、77年のゼンリン地図には2階が「沖縄PTA連合会」、1階が「沖縄出版販売㈱」としてあり、住所は牧志1丁目108?となっています。
早くに取り壊されてしまったと書いたのですがこれは自分の勘違いで、66年に機能を久茂地に移転させたあとも建物は存在していたとすれば辻褄は合うのですが...
それとおそらく開館は54年だと思われます(未確認)。

【追記】遠景に小さく写っている写真がありました。切り出して拡大したものですが「子供博物館」と読めないでしょうか。

那覇まちのたね通信 | 那覇(国際通り)/国際通り 牧志付近
http://naha.machitane.net/old_photo_big.php?id=1983

大正期と昭和初期

那覇区全図(大4)と昭和5年くらい(?)の那覇地図を並べてグダグダと。大正は那覇区、昭和は那覇市になっています。
那覇区全図から那覇市地図で変化があった場所、那覇市地図ではわかりにくかった箇所を取り上げてみます。

1は外人墓地周辺で、台ノ瀬伝染病院(避病院)と現在給油所になっているハーリーヤ(爬龍船倉庫)です。二つとも昭和になっても変わらなかったはずですが、川に突き出すようにあった地形や病院そばの入り江が那覇区地図ではわかりやすいです。

2は屠殺場と家畜市場の位置がはっきり書かれています。家畜は地方から舟で運ばれたようです。
3は御成橋を中心とした一帯ですが大正4年当時は「女子技芸学校」があります。この学校は後年の二高女ですが大正10年に久米の松尾山に移転します。
参考:二高女 - Wikipediaグダグダ(β) 松山周辺の官舎群

那覇区地図には県庁は東町の在藩奉行所跡にあり今の県庁一帯には図書館だけが見えます。御成橋は位置が違うように見えますが時期的にどうだったのかはまだ調べていません。御成橋は大正10年に皇太子が来たことにちなんでいます。
関連:漢那憲和 - Wikipedia(御召艦香取艦長)
4の旭町一帯の図ではまだ旭町と東町5丁目の埋立がされていません。左上に県庁が見えます。

5の監獄は那覇市地図では垣花にありますが大正12年に楚辺へ移転しています。
また奥武山と御物城跡(風月楼)の間の形が違うようです。埋立途中なのでしょうか。

大正4年と昭和5年の那覇で大きく違うのは県庁の位置と新県道でしょうか。県庁の移転に伴って周辺に店などができたそうです。
参考:グダグダ(β) 砂川惠姿(大黒屋) (戦前県庁近くで飲食業)。

那覇市内の氷室

氷室
今でこそほとんどの家庭の台所に冷蔵庫が鎮座し、食品の保存冷蔵に欠くことのできない家庭用品になっている。戦前は沖縄ホテルや宝来館などに電気冷蔵庫があったが、食堂や大きいそば屋は、木製にトタン張りの冷蔵庫に氷(四貫匁、二貫匁)を入れて使用しているくらいで、一般家庭に普及していなかった。夏期になると、あちこちに氷のカチ割り、割り氷を売る俄か飲料用氷販売店があった。その氷は山下町の沖縄製氷株式会社で製造され、市内東町3ノ28のヤマセ商店(末松重喜)と西本町1ノ21の小村氷室(小村ちゑ)の二ヶ所が特約店で、ここで販売されていた。
そのため熱病患者があった場合、前記に箇所に氷を買いにいったものである。距離的に遠い泊から、一貫匁氷を買って帰宅するまでに、溶けて八百匁になる有様であった。
昭和初期に高橋町1ノ2屋嘉の貸屋で、那覇市役所を退職した高嶺朝忠が氷を販売していた。
氷一貫匁15銭
泊人の足跡/松村興勝 p84、85(抜粋と編集)


図は「昭和初期の那覇市街図」を参考に作成しました。
宝来館は那覇市西新町3ノ3、沖縄ホテルは波の上です。
参考:グダグダ(β) 那覇の旅館業(S12)
参考:グダグダ(β) 宮里定三(沖縄ホテル)

【追記】那覇市史に抜粋された明治40年6月の琉球新報の「市井雑感」に氷卸業の項目があり「氷卸売業 この営業は区内に2名在りて小売業者は16名あり」と書かれていますが注意しておきたいのは市制施行前の那覇区ということです。

グダグダ(β) 垣花の水産関連施設
グダグダ(β) 琉球製氷株式会社 (大正12年、山下町の琉球製氷株式会社の広告)
グダグダ(β) 氷屋 (氷関連の広告)
グダグダ(β) 氷冷蔵庫 (昭和3年の広告について)

奥武山 2

垣花町跡の発掘調査報告書の中に「戦前の民俗地図」という図があり奥武山も書かれていましたので模写してみます。
奥武山で描いた図は那覇民俗地図を参考にしましたがそれとは少し違っています。


奥武山は埋立(内部の池/海岸線)や橋の架け替えなどで結構変化しています。図がどの時期を想定しているのかわからないので橋の位置や海岸線の形などは参考にならないものと思って下さい。
番号は以下。
1.梶原鉄工所
2.間製造所
3.水谷帽子製造所
4.石川弁護士
5.伊波
6.川井田茶屋
7.古屋茶屋

グダグダ(β) 南陽酒造跡(小禄) (戦後の埋立で小禄と地続きになった奥武山)
グダグダ(β) 奥武山 (那覇民俗地図/1945写真)
グダグダ(β) 別荘(ハルヤー) (那覇人の別荘について)
グダグダ(β) 楢原旅館/風月楼 (御物城跡の料亭)
グダグダ(β) 明治橋 (変化した橋の位置)
グダグダ(β) 新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美 (新嘉喜別荘)

上泉町(湧田)

上泉町
古くは湧田村と称した。下泉町より高台地になって、家々は立派な石垣と屋根門(ヤージョウ)を構えていた。中でも一向宗で有名な仲尾次家をはじめ、大家旧家は、すっと後までも昔のままの姿を残していた。また、湧田瓦屋でも名が知られ、1617年に朝鮮人陶工、張献功が窯を開き、陶器造りの指導にあたったが、そののち、仲村渠致元が大改革を行い、陶器の町としても定着していた。日秀上人が地蔵堂に題して「現世安穏後世善所」といったのも、この静かな住宅街をいっているのであろう。
近くに県庁や、県立二中があったせいか、官吏や教師など勤め人が多かった。地蔵堂の坂上には牛乳屋が二件あった。「湧田ヌ先」あたりには、藺サバツクヤーや、マーミナ(もやし)、櫛、チュージナクーツクヤーがいた。他町のものがこの附近をさして俗に「湧田サバカチ」と称したが家で仕事するのが多かった。
地蔵堂の下方にあった、ウガン(勢治荒御嶽)の広場には人力車の駐車場があって、その隣りには泉崎の村学校跡の古い建物が残っていた。エーマヤード(八重山役人の宿泊所)跡の旧家も近くに残っていた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p31、32(抜粋と編集)

那覇(東側)

湧田サバカチのサバは草履のことです。
久茂地の河原端(カーラバンタ)、譜嘉地の新村渠、湧田の先、若狭町の東より、牛マチの西側、久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)などは那覇の場末で細民街であった。
湧田先の草履作り、新村渠の木かんざし作りは那覇名物で、つげの木地を手頃に裂いて荒削りのままざるにいれて女客をまっていると先の鋭い切り出しで削り鮫皮で磨きをかけ、旧藩時代一本5、6文で売ったようである。
グダグダ(β) 那覇の細民

チュージナクーチュクヤー /cjuuzinakuucukujaa/
チュージナクー cjuuzinakuu(洗い粉)を作る人。主に女性の仕事だった。ワクタヌサチ 'wakutanusaci (湧田崎)の人に多く、ざるに入れて行商もしていた。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51096


湧田地蔵堂は開南小学校のそばになるでしょうか。上泉は道がすっかり変わってしまっているのでおもかげはありませんが開南小学校そばで弧を描いている道あたりに地蔵堂はありました。
上泉湧田地蔵堂

参考:グダグダ(β) 那覇人気質 2 (湧田のあだ名について)
参考:グダグダ(β) もやし (上質な泉崎のもやし)

未開通の潮渡川


左写真は一号線工事以前、右は現在に近い地図で、各ポインタは赤が那覇商業(現那覇中)、青が兼久、緑は崇元寺です。潮渡川は七つ墓のあたりで久茂地川と分かれて若狭団地方向に向けて流れてゆくのですが、左写真の埋立前は潟原そばの入り江といった雰囲気です。
1958(昭和33)年の沖縄タイムスにこの流れが一号線で寸断されていたというのがわかる記事がありましたので引用します。

一号線に架橋を/水害防止、那覇市が申請
那覇市の真中を流れるガーブ川の支流の一つである前島町から1号線を通り市営住宅に通ずる排水路は、1号線でたち切られているため、大雨のたびに附近に浸水さわぎをおこさせているが、那覇市では9日、主席に1号線を通して橋をかけるよう申請した。
去る2月7日の豪雨でガーブ川をはんらんさせ、公設市場一帯に1億円の損害を与えたのも一因はこの排水路の水のはけ口がないためだといわれているが、1号線の工事は技術的にも困難だといわれ乏しい那覇の財政ではできないとあって政府に工事申請をしたもの。(後略)
沖縄タイムス 1958年5月13日[那覇市議会史p28より抜粋]


未架橋状態の潮渡橋の写真もあります。
那覇まちのたね通信 | 58号線(旧1号線)/前島から若松方面を望む
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1767
那覇まちのたね通信 | 58号線(旧1号線)/前島付近の1号線/1961頃
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1766


潮渡川が海に向かって開通したのがいつなのかはまだ調べられていません(後日追記します)。

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