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旧那覇の地形

「なはわらび行状記/船越義彰」の「地形」と題された箇所から引用します。

上ノ蔵の坂がけずりとられてなんの変哲も無い道路になった。首里バスがヨタヨタと坂をのぼってゆく。(略)いまの上山中校の裏の一帯は上ノ蔵の坂上で高台の快適な場所であったがそこも平坦になってしまった。辻のナカミチからまっすぐ西新町におりてゆく坂は相当高く、勾配も急であった。この坂をおりると西新町、左手は真教寺の裏の石垣の連なる小路だったがこの坂もいつの間にか消えた。新天地劇場も小高いところに建っていたが新天地もろともその高台も姿を消した。

松尾山とそれに連なる内兼久山は、那覇尋常高等小学校(沖縄テレビ)、そして裁判所(郵便局)、孔子廟(商工会議所)、そして大典寺のあたりから潟原交番前に連なる丘陵地帯で、そこには松山小学校、県立二高女、県立病院、知事公舎、その他県庁のお偉方の官舎があり、松風の音もさわやかないうなれば那覇の軽井沢的場所であった。
なはわらび行状記 p50、51(省略と編集)


図は上の文であげられていた箇所を昭和4年の那覇地図に示したものです。義彰さんの文自体がもう歴史性をもってしまっていて注釈がいるのが切ないとこです。
沖縄テレビ --> 沖縄ワシントンホテル
郵便局 --> 福州園から若狭向け十字路角

上ノ山中学校は那覇尋常小学校跡地ですが、現在上ノ山中学校の周囲のどこにも坂と呼べるような道はありません。
図でオレンジで示した線が辻のナカミチですが現在の辻はほぼ平坦で周囲よりわずかに高い程度の土地です。
「那覇尋常高等小学校-裁判所-孔子廟-大典寺(県立病院裏)-潟原交番前(現松山交差点付近)」に連なる丘陵地帯はワシントンホテルから商業高校を越え松山交差点付近につながる地帯ですが丘陵とよべるような高台はありません。ゆるやかに少し高くなってはいますが...

現在久米大通りは過去の道筋をほぼ残しています。そして孔子廟付近の久米と久米大通りは昔から低地になっていて、過去の那覇はその低地の両側に現上ノ山中学校裏の高台と現ワシントンホテルから松山交差点付近までの高台がある地形でした。
また「那覇の軽井沢的場所」と述べられている松山側の高台は昭和19年相当の「若狭古地図」を見てみると敷地の大きな屋敷や官舎があるのが確認できます。
図中の西町あたりで何箇所か赤く示されている所は劇場/映画館です。

義彰さんも嘆いていますが過去を投げ捨てて開発してしまうとよりどころが無くなってしまいますね。旧真和志がスプロール現象でガタガタなのを見ると計画性のある開発は必要であったと確信できますがもう少し昔がしのべる姿にしてくれんかったもんかと愚痴りたくなります。
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潮渡口・潮渡橋

塩田に囲まれた前島の兼久(水色)と那覇市街地の間の潟原の河口が潮渡口です。


一条の海水潟原を横断して久茂地川に通ずるものは球陽尚敬王二十一年の条に「前汀内開一江」とあるものに相当する。若狭町から泊前島にかかる浜街道はこの小流を徒歩して泊高橋の浮道に出たもので、その徒歩地は潮渡口と称していた。
明治36年七間の木橋を架しこれを潮渡橋と命名した。
東恩納寛惇「憧憬集」


兼久浜・塩田
泊高橋から南へ向かう58号線は昔の線路筋と重なっていますがとまりんを過ぎた辺りから若狭側へ曲がり那覇中(旧那覇商業)へ向かいます。「戦前の兼久」図の左側切れた辺りから曲がり少し行ったところで潮渡橋になり、その先二手に分かれ一方は那覇商業、一方はイベガマ(現松山交差点そば)に向かいます。
当然ながら現在の橋とは位置が違っています。

那覇商業学校跡

那覇商業学校
現在の那覇中学の位置にあった市立那覇商業学校です。
空撮写真が米軍撮影の昭和20年、左下地図が昭和4年、右下が現代です。
この那覇商業学校横から兼久にかけては満ち引きによって陸地化する塩田だったせいもあってはっきりとした輪郭を描きにくいです。どの地図を見ても微妙に違っています。
兼久浜・塩田

赤面原(アカチラバル)の周辺は畑ですが、アカチラバルは耕作されていない荒れ地のようです。那覇商業学校前を横切る若狭町大通りには電車が走り、その側には人力車の駐車場があり車夫がたむろしていました。
那覇商業学校が旧那覇の一番はずれでここから潟原側は一気に寂しくなります。電車が走る道沿いに兼久を通って泊高橋にゆくか、長虹堤を渡るか前島に入って板橋を渡るかして牧志にゆくかしか道がありません。

天から落ちたる糸満小

硝子工場

辻原付近の前田硝子工場の図に「天から落ちたる糸満小の墓」というのを書入れてあります。
※図は那覇民俗地図を参考にしてあります。
とりあえず天から落ちたる糸満小の説明を引用します(引用元をメモし忘れてしまいましたが多分なにかの辞典だった記憶があります/すみません)。

沖縄各地で歌われた童謡、降天伝説にまつわる歌。歌詞は、

天から落ちたる糸満小
幾人揃って(イクタイスルウテ)落てたがや  
三人揃うて(ミッチャイスルウテ)落てたんど
落てたる所やまーやたが
波上城(ナンミングスクノ)のついたっちゅー

若狭町海岸に雪の崎という出っ張った岩山があって、天から落ちた<天部人>アーマンチューの足跡というのがあり拝所もあった(取り壊され今は無い)がこれから発生したものかどうかは不明。


ユーチヌサチ・スーヌサチで触れていますが雪の崎は現在の若狭小学校で潮の崎(スーヌサチ)が辻原墓地のあたりの岸壁。
ユーチヌサチ・スーヌサチ
那覇民俗地図では最初の図の位置に「名所・旧跡・拝所」のマークで「テンカラウチタル糸満小の墓」として示されています。つまり引用した説明と那覇民俗地図の説明が違っているんですね。
というような事情で図は「那覇民俗地図での位置」になっているというのを了解願います。

追記:コメントで現在の波之上自動車学校であるという情報を頂きました。戦前のあの位置は海になります。

重民町

まず当間重民のこと。重民は市長在職中に亡くなっています。

当間 重民(とうま じゅうみん、1900 - 1952)は、戦前の沖縄県・沖縄諮詢会・沖縄民政府時代の政治家で那覇市長(1949~52)。
第2代行政主席の当間重剛の弟で、父は初代那覇市長の当間重慎である。
当間重民 - Wikipedia


重民町と呼ばれた埋立地域は海側の一帯になります。

重民町 那覇市の旧町名、現在は若狭3丁目、前島3丁目にまたがる。夫婦橋、夫婦岩より東の地域。1951〜53年頃米軍援助で泊港を浚渫した際埋め立てられた地域。町名は当時の市長当間重民にちなむ。
住民は戦後軍用地に接収された垣花町の出身者が多い。


重民町として議決された事が市民の友に掲載されていました。市議会での決定は1955年12月であったようです。

△那覇市行政区域の一部町の区域を変更すること及び新たに区域を画する事について(可決)
(イ)泊港北岸埋立地5504坪を高橋町2丁目の区域とする。
(ロ)泊港南岸埋立地A地区32157坪を前島町2丁目の区域に入れる。
(ハ)重民町 前々市長当間重民氏の功績を讃えて、泊南岸埋立地B地区36961坪を住民長として画する
市民の友 1956年1月1日 第57号(抜粋)


以下関係なく。
前島移転地
重民町はこの図よりもっと海側です。この図の範囲は多く牧志街道や美栄橋の立ち退き対象者に配分された事がわかります。

東寿寺(堂小)

那覇の細民で那覇の下層住民について触れました。

久茂地の河原端(カーラバンタ)、譜嘉地の新村渠、湧田の先、若狭町の東より、牛マチの西側、久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)などは那覇の場末で細民街であった。

那覇の細民街といえば松尾山の下にあった堂小屋敷は有名だ
那覇市史 通史2 p180


堂小(以下ドウグヮー)なんですが那覇民俗地図を見ると<東寿寺(堂小)>となっています。ドウグヮーの側の屋敷だから堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)なんでしょうね。
東寿寺(堂小)
那覇商業高校の向かいの道を下っていった角に拝所のようなスペースがあり、そこが現在の東寿寺跡ですが、戦後の那覇市区画整理で現在地に移転しているようで戦前の敷地は検証が必要なようです。

堂小屋敷に住んでいた久米人(クニンダ)の経済的苦境や貧しい暮らしがうかがえる小説として「奥間巡査/池宮城積宝」があります。そこでは△△屋敷と伏せられていますが想定したのはこのドウグヮーヤシキだったかもしれません。小説ですので証拠にするにはアレですが青空文庫で読めますので覗いてみて下さい。少し前に沖縄文学全集の小説の巻に収録されてもいます。
出だしはこんな感じ。

琉球の那覇市の街端れに△△屋敷と云ふ特種[#「特種」はママ]部落がある。此処の住民は支那人の子孫だが、彼等の多くは、寧ろ全体と云ってもよいが、貧乏で賎業に従事して居る。アタピースグヤーと云って田圃に出て行って、蛙を捕って来て、その皮を剥いで、市場に持って行って売る。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000868/files/2689_20502.html

クニンダに限らないやるせない話でアレなんですがおすすめはします。

参考:グダグダ(β) 堂屋敷と堂小屋敷

51年の土地評価続き


51年の土地評価(割当地 2)では割当地の等級を見て51年当時の商業中心地を考察する準備でした。
書かれている店舗の位置がわからず区割りもいまのところはっきりしませんが(笑)とりあえず推察できるところから考えてみます。図の参考にしたのは「那覇市地図(S26)」、市場の位置はゼンリン地図からです。

まず唯一の一等である「市場通り入り口(一区十四組友寄商店より沖陶社前までの通りに面せる両側)」。ここは1区14組が現在の平和通りの国際通り側入り口であることから大体の場所がわかります。
二等。
「民衆百貨店より丸国マーケット十字路及西方へ右折し(ry」はわかりません。「那覇市地図(S26)」では商業店舗名は大洋劇場周辺と映画館・劇場を除いては図で?付きで表示した位置に○○デパートしかありません。字が潰れてしまっていて○○の部分がわからないのですが漢字二文字であるのはたしかなようなのでここが民衆百貨店(デパート)ではないかと推定します。推定しても残りはわかりませんのでどうしようもありません(笑)。
「栄橋より共和商会まで」「栄橋より川沿い千歳橋まで」は栄橋を中心とした通りのどれかでしょう。
三等。
「1区鉢嶺時計店より沖縄バスまでの両側」は国際通りの現三越前付近。
「三共デパート路地三通路(一等地の通りを除く)」は丸国後方ではないかと根拠はないけど推定します。
「果物市場次より新栄橋までの両側」はそのまんまですね。
四等
「新田家具店より開南売店迄の両側」は新栄通りそのまんま。
「琉銀支店より青バス前十字路までの両側」は国際通りの沖バスからどこかってことでしょうか。
「丸国マーケットよりローズ写真館十字路までの両側(四等)」「神里原ローズ写真館の次ぎより丸金デパートまでの両側(三等)」というのがありますがローズ写真館がわかりません。この二つを総合してみると、
<ローズ写真館は丸国より直線で結ばれた十字路にあり><ローズ写真館次ぎから丸金デパートまでは道がある>
ということになります。51年時点では開南から農連方向(大洋劇場)に向かう道はありませんからそれを考えていくつか考えられると思います。

琉銀支店より青バス前十字路までの両側(四等)
青バスですがこういう記述があります。
戦後の沖縄本島のバス路線事業は1950年4月1日に会社を設立した沖縄バスに始まり、50 - 51年には14社(沖縄バス、共同バス、首里バス、三共バス、沖縄交通(桜)、那覇交通(銀)、合同バス、昭和バス、あらかき平尾バス、協和バス、東陽バス、第一交通、青バス、那覇陸運)が乱立。
うち8社の合併や買収などで誕生した昭和バス株式会社と青バス株式会社が合併し1964年7月に琉球バス交通の前身である琉球バス株式会社が発足した。
琉球バス交通 - Wikipedia

50か51年に発足した青バスは1964年に他社との合併によって琉球バスになったということですね。しかし国際通りに少し前迄あったバスターミナルと青バスの関係、さらにそこが青バス前十字路なのかということも不明では何ともいえません。こういう記述もあります。
>1955年にはバスターミナルが統合建設され(略)幹線は牧志を中心とする国際通りに移転し(略)商業の中心地も国際通りに移っていった。
国際通りのターミナル建設は55年でリウボウ・山形屋の移転もそのあたりです。今回の割当地評価と図は51年なので時期がずれます。「青バス前十字路」の場所が特定できればいろいろとはっきりするんだろうけど...

今回の結論は51年当時の高評価割当地のはほぼガーブ川周辺になるということです。頻出する単語は栄橋、丸国マーケットで、そこからどこどこへという感じですからその辺りと市場が栄えていたんだろうなということが推定できます。
戦後史としてよく語られている事実を再確認しただけですわな(笑)。

久米にあった流れ 2

久米にあった流れの続きです。
いい加減に書き込んでいたのですが詳細な図を見ることが出来たので書き直してみました。そのまえにこの図。

この図の元地図は昭和初めごろ、紫で那覇民俗地図にある溝を書き込んであります。
この溝は王氏宗家やパブテスト教会の側から始まり、道の側を流れて孔子廟/明倫堂の側で久茂地川に合流しています。
久米の溝
この図だと水色で埋め立てられた場所と示されたところの上、三角形の敷地が王氏宗家となります。図は「琉球の都市と村落/高橋 誠一 」、p83の「昭和初期の久米とその周辺の道路推定図」、p86の「昭和初期の久米とその周辺の景観推定図」、p88、p91に掲載されていた「唐栄久米村とその周辺の景観推定図」を参考にしました。

高橋氏は「埋め立てられた部分」と表示したところを湛水池、流れを水路と表記しており、この流れを風水思想に基づく人工物、あるいは自然にあったとしても図での「埋め立てられた部分」である「湛水池」は掘削されたものではないかと考察されています。
「琉球の都市と村落」は久米の部分だけ飛ばし読みしただけなので何ともいえないのですが、琉球の集落建設での風水思想を中心として考察していますのでそのような論調も当然かと思います。また周囲の標高なども考慮してこの流れが自然発生して出来上がったものとは考えにくいというところにも説得力があります(自分もこの流れは人工物だと思います)。
久米を巡る地勢と風水などおもしろいので是非原著にあたって頂きたい。

またこの本が自分にとって面白いのは過去の地図と米軍の写真、那覇市が過去に作った民俗地図など現物を目にすることの出来る資料で制作されているというとこです。
そして学者さんが苦労しても誤差が出るくらい難しいのだなというのもわかりました。例えばp88とp91の「唐栄久米村とその周辺の景観推定図」は基本的に同じ図でp99の方は米軍空撮写真による修正が加えられています。

この流れ周辺の時系列は、
•湛水池と水路が久茂地川に通じていた
•湛水池が埋め立てられた
•水路も埋め立てられた
•久茂地川は改修され戦前の道路も消滅した(戦後)

ということになります。
また水路の側の道路も両岸に道があったようです。この辺は久米を取り上げるときに詳しく書き込んで検討したいと思います(詳細図も手に入ったことだし)。

しかし同じような資料を手にしても学者さんの仕事は丁寧で凄いです。
明治期に存在したが昭和初期には消滅している史跡なども考慮されていて、図の時期を指定するという意味がちゃんとあるもんだなということや明治から昭和にかけての変化が大きかったということを肝に銘じておかないとポカをするということも学習させて頂きました。

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