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牧志ウガン角力場/野外舞台

俗に牧志ウガン(牧志御願)と呼ばれる場所に存在した階段状の建築物について(とりあえず)まとめます。

牧志ウガンは牧志部落の拝所であり、東のウタキ(アガリヌウタキ)です。俗に牧志ウガンと呼ばれている公園の丘の上にあります。この一帯は牧志町の共有地であったが戦後市有地になっています。
牧志ウガンと呼ばれる公園の正式名称は牧志公園で、公園内に拝所があったことから俗称として定着したと思われます(公園化の前からあるのだから逆なんでしょうけども)。
牧志公園(以降統一)内には角力場があり、戦前から角力大会等が行われていたようです。この角力場は現在も公園内のグラウンドに存在し、沖縄角力(シマ)の大会が行われています。
戦後の1957年7月に階段状の建築物(野外舞台)が市によって建設されます。公園内のグラウンドを取り囲むよう野球場の観客席のような形で作られました。この野外舞台(以降統一)は闘牛場と形が似ている事から闘牛場とも言われているようですが、那覇市の広報誌によると野外舞台とされています。この野外舞台がいつ無くなったのかは今のところ確認できておらず、少なくとも平成4(1992)年頃に行われた現牧志公園内の発掘調査の写真には存在していません。また国土交通省の1977(昭和52年)撮影の写真にも存在しないように見えます(後述)。
那覇市が発行する「市民の友」での野外舞台完成記事は牧志ウガン野外舞台を参照して下さい。

整理すると、牧志ウガンは牧志公園内の拝所で東のウタキの別称牧志ウガンという呼び名は現牧志公園の別称としても使われる。これはもともと戦前から拝所とその敷地で角力が行われていたような関係で、現牧志公園がすべて牧志ウガンであるともいえる。
角力場は牧志公園内のグラウンドに設置されたもの野外劇場は戦後の牧志公園内に一時期存在した角力場(グラウンド)を取り囲むように作られた建築物ということになります。

航空写真を基にした絵(彩色写真か)が野外舞台の形状について良くわかります。
牧志ウガン角力場
元画像掲載元:http://www.rememberingokinawa.com/photo/cpc_naha_shuri_1/28

また野外舞台内部から撮影されたとおぼしき写真もあります。
https://picasaweb.google.com/lh/photo/LjBlcKK4Ta87XvAycZVxNQ
https://picasaweb.google.com/lh/photo/bdE8NEBS6_oinbq-U_KESQ


この彩色写真は安里から牧志方向に向って撮影されています。彩色写真には上図につけた説明はありませんが、ほぼ同じアングルで撮影された別写真についている説明を流用しました。
牧志ウガン角力場」と書かれているのは「新郷土地図 第一巻/沖縄タイムス社/1957年発行」6ページにある空撮写真で、「牧志ウガン角力場(MAKISHIUGAN WRESTLING RING)」という説明がつけられています。
この新郷土地図に使われているのと同じ写真がまちのたね通信にあります(1956年頃となっていますが)。
参考:http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1859

以降は余談として。
現在牧志公園のそばの川沿いは崇元寺まで道路が通っていますが、これは平成5(1993)以降のことです(工事開始日や開通日をまだ調べていません)。
この工事を行うにあたって発掘調査が行われており、「牧志御願東方遺跡 モノレール関連街路事業(崇元寺姫百合線)に伴う緊急発掘調査報告(1995)」という報告書にまとめられています。野外舞台がいつ頃なくなったかという検証に使った写真はこの報告書にあったものです。
工事以前の牧志公園とその周辺についてざっと述べると、公園内の丘が現在の道路に広がっていてその周辺の川沿いは俗にスラムと呼ばれる状態でした。
 
左図内の左側は報告書p7内の「グリッド設定図」を模写して現在の地図に重ねて描いたもの、右は現在の地図です。右側の写真は国土交通省の1977(昭和52年)撮影のものですがこの写真を見ても野外舞台はすでに存在しないように見えます。
右写真の掲載アドレスは下記、写真の加工等は自分がしたものです。

http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C58&IDX=7&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19


左は少し前の地図で右は現在の地図です。左図の赤い矢印は最初に掲載した「牧志ウガン角力場」の撮影方向を示しています。
左図は「崇元寺姫百合線」のうちひめゆり通りから壺屋小までの区間が開通しているが牧志公園から崇元寺までの工事がまだ始まっていない頃のものです。工事はひめゆり通り国際通り間が最初に行われています。

牧志町の共有地であった牧志公園一帯が戦後に市有地になったのはニミッツ布告の影響です。ニミッツ布告に関しては下記リンクを参照して下さい。
参考:神道指令 - Wikipedia
参考:学制百年史 資料編 [一 教育法規等 (一) 連合国軍最高司令部指令]
参考:ニミッツ布告
牧志公園の元共有地問題がわかる新聞記事があるので引用します。

牧志御嶽土地問題解決促進町民有志会(高良嘉永会長)の代表ら8人が[平成4年1月]16日、那覇市役所に親泊市長を訪ね、「現在市有地となっている牧志ウガンの所有権を牧志町民に返して欲しい」と要請した。同会は 1989年10月にも同じ要請をしたが、「市から回答もなく、誠意が感じられない」と市長に迫った。親泊市長は回答がなかったことをわびた上で、「法的問題など関係部による委員会を内部でつくって検討したい」と答えた。
牧志ウガンは国際通り沿いにある拝所。戦前までは牧志町の共有地だったが、戦後、神道の護持を排するため、ニミッツ布告によって寺社仏閣などは私有地・共有地として登記できなくなり、市有地になった経緯がある。
牧志ウガンは近く、モノレール関連道路の工事で敷地の約1000平方メートルが削られるが、同会は「モノレール事業には協力する」とした上で、(1)牧志ウガンの牧志町民への返還(2)モノレールつぶれ地の補償(3)由緒あるお宮と井戸の移転・復元費の負担などを求めている。
琉球新報 平成4年1月20日[那覇市議会史p438より抜粋]


那覇市史での記述。

[牧志]町内には村中央の拝所と牧志ウガンの2つがあり、牧志ウガンは旧5月5日にはウガミの後、ここで相撲大会があって首里、那覇をはじめ中南部に、その名が知られていた。現在の蔡温橋近くの子供あそび場がそれである。
那覇市史資料編第二巻中の7、p33


この項は野外舞台取り壊し日時と国際通り崇元寺間道路の開通日と工事日時を後日追加して終わりたいと思います。

【追記】那覇市議会史別冊年表に1977年3月に牧志ウガン児童公園完成とありました。
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上の芝居・下の芝居

旧那覇にあった上の芝居と下の芝居(沖縄座)です。

上の芝居・下の芝居上の芝居・下の芝居

端道そば[辻町1丁目1番地]に住んでいた金城芳子さんの話。
グダグダ(β) ゆたか屋
一帯の家主であった山里[永吉]家。
グダグダ(β) 山里永吉

千原繁子さんの下の芝居そばの宇良てんぷらの思い出。
グダグダ(β) 庶民とフクミン
グダグダ(β) 油のひみつ

沖映通りのジミーパン(60年代)

60年代の沖映通りで取り上げた写真に「ジミー」という部分が読める看板の店が写っています。



昭和中期(69年頃)のゼンリン地図を確認すると、国際通りから沖映通りに入って角が並里商会で、隣はジミーベーカリーになっています。宜野湾大山に本店のあるジミーなのかなということでジミーの社史(?)を確認してみました。
【追記】1965年9月に沖縄タイムスにより撮影された写真での店舗の看板には「ジミーパン」と書かれています。詳細は文末に追記します。
また上の写真も「ジミーパン」と読める事に気がつきました。


Jimmy"s 50th Anniversary 1956~2006
発行 株式会社ジミー


ジミーの商品紹介と歴史、それとエッセイのような本ですが、この本に創業者の稲嶺盛保さんの「ジミー創業物語」が6ページほどあります。年表もありますが、沖映通りの「ジミーベーカリー」や「ジミーパン」については触れた箇所はなく、他の名称での店舗についても触れられていません。
創業物語と年表から稲嶺さんとジミーの(復帰までの)歴史をまとめてみます。

1930(昭和5)年 首里崎山で農業の両親のもとに誕生
1946(昭和21)年 北中城の基地内で働く
????年 北谷町瑞慶覧で洗車業「ジミーズカーウォッシュ」開業/立ち退きのため廃業
????年 那覇市真玉橋の琉球ミートに就職/結婚
????年 浦添市の商社バークレーに勤め、取引先でパンに触れる
1956(昭和31)年 宜野湾市大山で雑貨商「ジミーグロセリー」開業
1958(昭和33)年 ジミーベーカリーの称号を使用


年表では大山店のオープンから1982年の那覇店のオープンまで新店舗はなかったようです。1976年まで配達車で小売店への卸販売は行っていましたが那覇に配達していたかどうかはわかりませんし、この沖映通りの店舗に関係があったのかどうかもわかりません。
写真の掲載元であるImages of Okinawa after World War IIでは1968年とされていて、60年代にガーブ川の改修は行われていますから一応大体の年代はあっています。しかし後述するタイムスの写真では65年には沖映通りのガーブー暗渠化は終了しています。
これに限らずImages of Okinawa after World War IIの撮影年月日は少し怪しいものもあり簡単には信用できないところがあります。このあたりはちゃんと検証しなければいけないのですがおざなりになっていて申し訳ない。
ガーブー流域の暗渠化進展状況はまとめようと思っていますがなかなかまとめられずにいます(後日まとめます)。
下の画像は64年市勢要覧から。
ガーブ工事

【追記】コメントで「沖縄タイムスフォトギャラリー/あんやたん」に掲載されている写真にこの店舗が写っていて「ジミーパン」と書かれていることをご教示頂きました。
写真は下記アドレスの「No:C_154742」で、説明は「水上店舗道路駐車」、撮影日時は「1965年5月24日」となっています。
65年は「ジミーパン」、69年は地図上では「ジミーベーカリー」であったことがわかりますが、別の写真を見ると同時に表示していた可能性もあります(追記参照)。

http://photo.okinawatimes.co.jp/list.php?event_id=C&page=3

【追記】まちのたね通信の写真からスクリーンショットして加工。64年撮影。

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2081
※上のアドレスの画像はもう少し鮮明です
上の看板は「パン」の字の「ン」が見え、下には「JIMMY'S」とその下に「ERY」とだけ判別できる文字が見える(BAKERY?)。ジミーベーカリー(英語/英字)とジミーパン(日本語)の両方が同時に表示されていた?

波之上水上店舗の撤去

代執行で水上店舗撤去
那覇市は[昭和55年5月]23日午前9時から那覇市内・波上水上店舗の代執行を強行、焼け残った木材類の撤去作業を始めた。波上水上店舗は去る1月22日の火災で8店舗全部が焼けてしまった。これらの建物は港湾法や海岸法に違反していた不法建築物だ、として那覇市はこれまで数回にわたって撤去勧告をして来たが、所有者がこれに応じないため、この日の代執行となった。現場には被災者数人がかけつけたがトラブルはなく、作業は順調に進められた。那覇市は波上から若狭間の海岸を海浜公園として整備し、市民が広く利用できるようにする考えだ。
波上水上店舗が出来はじめたのは28年前。この間、那覇市は数回にわたって撤去勧告をして来た。だが、8人の業者はずっと貸しボート業を営んできた。そうした中で、去る1月、火災が発生し、すべての店舗が焼けてしまった。その後、那覇市と業者の話し合いはたびたび行われてきたが、「これまでのように貸しボート業を続けていきたい」と言う被災者の声は聞き入れらなかった。
そして、那覇市は去る3月14日、港湾法及び海岸法に基づき、同26日までに残がいを撤去するように所有者に命令した。それに業者が応じなかったため、4月7日に戒告書を発送するなどの手続きを取ったが、業者による自主的な撤去作業はなく、この日の代執行となった。
この日、現場には午前8時頃から那覇市の港湾部職員や請負業者らが詰めかけ、あわただしい雰囲気に包まれた。午前8時50分、稲福英男港湾部長が「4月30日までに工作物を撤去するよう警告したが、指定の期限までに履行しないので、行政執行法第2条の規定に基づき、執行し、その費用を徴収します」と代執行令書を読みあげた。ただちに請け負い業者による撤去作業に入った。作業員は27人で、ユンボ2台が次々に懐中に立てられているコンクリート柱を壊した。市職員も32人が動員された。
(略)
琉球新報 昭和55(1980)年5月23日 (抜粋と編集)


火事で焼けてしまった波之上水上店舗の撤去作業の新聞記事です。記事は「那覇市議会史 第4巻 資料編3」にあったものから引用しています。
>波上水上店舗が出来はじめたのは28年前
この記事は昭和55(1980)年ですから、できたのは昭和27(1952)年頃でしょうか。若狭は1951年4月に壷屋に続いて解放されていますので立ち入れるようになってすぐ造ったことになります。

1971年の地図ではこのように店舗があった事になっています。

関連:グダグダ(β) 水上店舗(波の上)

70年代くらいの国際通り

国際通り
Naha, Okinawa; Kokusai Dori from Dept. Store (1971)
http://www.hlswilliwaw.com/SlideShows/Okinawa-Part-2/Okinawa-Part-2/1/lg/Okinawa_1971_02_s20.htm



写真はむつみ橋から山形屋向けで1971年撮影ということになっています。
この範囲で同時期くらいのゼンリン地図から店舗名を抜出してみます。

まず写真右手、むつみ橋角付近に「金城歯科」の看板がナイアガラの看板に隠れるように写っています。金城歯科からむつみ橋よりに二つ隣りには大きく写っている「六本木」があり、写真に入っていませんがその隣りは中央相互銀行、大洋堂となっています。
「月星靴」の後ろにはよく読めない看板がありますが「ワニ」という字が読めないこともありません。ゼンリン地図ではこのあたりに「クロコデールストア」という店がありました。
写真には写っていませんが大湾洋服店は当時からあります。山形屋隣りにはたまや呉服店がありました。

この時代のOPA(元フェスティバルビル)は並里百貨店となっていて、その隣りは喫茶いずみ、いずみ写真館、とうま洋装店、だいわ靴店となっています。このうちの何件かは少し前まであったか現在もあるかと思いますが確認していません。
場所が不確かではあるのですが「ラテンコーター」という店があり、ここは「ラテンクォーター」という有名な店ではなかったかと推測します。年配の方と話をするとたまに出てくるんですよ(笑)。
そして山形屋の斜め向かいに店頭に洋服生地等を飾ってあった店があったかと思うのですが、ここがおそらく玉宮モードコーナーです。おそらく現在の十文字屋呉服店の隣りかもう一つ隣りではないかと思いますが記憶が定かではありません。

この時期のこの範囲には呉服店やふとん屋、洋服店・洋裁店、時計店、写真館、宝石店などが複数あり、普段の買い物でくる場所ではない場所という感じがします。
クロコデールストアーはおそらくワニ皮製品を扱っていたので観光客相手、山形屋近くのカスリネクタイ館や角萬漆器もおそらく観光客相手でしょう。

【追記】クロコデールストア ---> 照屋敏子

改修以前の国際通り

「那覇市旧跡・歴史的地名地図」では国際通りの久茂地側入口から松尾消防署手前、そしてパラダイス通り入口からむつみ橋までが現在の道筋と少しだけ異なります。戦後の工事で直線化されたと思われます。
下図はその改修以前の道筋(昭和10年代後半)を描いてみました。
家政女学校
この緩いカーブは写真にも残っています。
美栄橋町
「那覇市旧跡・歴史的地名地図」では最初の図のような緩いカーブなのですが、写真ではもっと急な曲がり方をしてるように見えます。
このカーブの理由なのですが、松尾側は高台になっていますから現在の直線化された道は切り崩されて造られたのではないかと思われます。つまり丘を避けるようにゆるやかにカーブしたのではないかということです(改修以前の国際通りと紅房)。

この写真は山形屋の向かい、松坂屋跡と道を隔てた隣りにあった映画館の立て看板ですが看板の後方は小さな丘のようになっています(現在は整地されて建物があります)。
参考:グダグダ(β) 国映館・松坂屋間

【追記】コメントで山形屋・むつみ橋間の道路改修が比較できる写真をご紹介頂きました。最初の写真で橋そばの角にある二階建てを目印にするとわかりやすいんではないでしょうか。
http://www.flickr.com/photos/tabor-roeder/4911061795/in/set-72157624617858927/lightbox/

http://www.flickr.com/photos/jimgris/511821781/sizes/o/in/photostream/
最初の図を再掲(左)、米軍撮影の道路改修前の写真(右)。左図は少しオーバーに描きすぎたか。
家政女学校

パラダイス通り

興味深いページを見つけたのでご紹介。

オキナワ・ストリートウォーカー パラダイス通り特集【Okinawa情報局】
http://www.okinawajoho.net/pc/street/paradise/index.html
戦後、今のパラダイス通りのちょうど真ん中あたりに「ニューパラダイス」という名前のダンスホールがありました。若者を中心に日本人もアメリカ人も誰もが踊れる社交場として大流行し、「ニューパラダイス」に集まる人々が店の前の狭い通りのことを自然と「ニューパラダイス通り」と呼ぶようになったのです。

ニューパラダイス通り
上の図で画面左端の青で示されたところがニューパラダイスです(ゼンリン69年度版による)。【追記】「那覇市旧跡・歴史的地名地図」ではその向い側になっています。
ゼンリン地図で確認できるダンス教授所は三カ所あって赤い点で表示しました。水色のが飲食業らしき名前の店舗、黒い点は商店や理髪店などの飲食以外の店舗、四角で囲った場所が新成駐車場です(現在はマンション?)。
ニューパラダイスの建物はわりと後まで残ってたようですが自分は記憶がありません。通りにずらっと平屋一階建ての木造建築の店舗が建ち並んでいたのは憶えています。

興味深い文があります。
>戦争が終わって地主がいなくなってしまったこの辺りには、沢山の人々が勝手に住みついていたんです。
>そこで那覇市が区画整理を行い、ひとり30坪づつ土地を割り当てました。
>私たち兄弟は5人で150坪をもらい、そこに当時船員だった兄が廃材を集めてレストランを造ったのです。
>それが最初の「ニューパラダイス」でした。

パラダイス通り周辺もスラム的発生をしていたんですね。
自分の推測では新県道(国際通り)以前の道は山形屋裏から沖映通りのパチンコ店脇駐車場に出て沖映通りを渡り現在の建物の間を通る道が通行路だったんではないかと思います。この道は現在の公園側を通るパラダイス通りと平行した細道を通り一銀通りに至っています。
そして戦前ではこのあたりは墓地地帯に囲まれていて集落がありません。

戦前の図では牧志町から美栄橋町にいたる道がその道に該当するかと思われます。

大城外科そばの廃道

大城外科医院(壺屋1-28-18)付近の道の話です。
まず現在取り壊されている大城医院がまだあった頃のストリートビュー(8/29現在ストリートビューは更新されていません)。
大城外科(ひめゆり通り)
この近辺の道。

道に関してはひめゆり通り(330号)を挟んで那覇側と真和志側で好対照です。壺屋の集落は那覇側が古くて真和志側に拡大していってるのですが、那覇側は旧道がそのまま使われている箇所が多く残り、真和志側は区画整理が行われて格子状の道路ができ旧道はあまり使われなくなっているか消滅しています。しかし僅かに真和志側にも旧い道筋や痕跡は残っていて、ひめゆり通り(元線路)に分断される前からと思われる道や道の跡がひめゆり通りを挟んで正対しています。
壷屋の那覇側にある道路、たとえばグランドオリオンに行く道などには正対する大きな道が無く、日野通り()とは十字路になっていません。しかし旧い道筋を見ると正対する細い道(巾1.5M程)と繋がっていたのだと了解出来ます。

大城外科(ピンク)の側には昔は道があり()グランドオリオンの通りに合流していました。大城外科の後ろからは残っていています。
図中でグランドオリオン通りと大城外科からの通りは別の色で表しているのですが、もともと大城外科からの通りはグランドオリオンに行き、現在グランドオリオン向けにひめゆり通りから入ってゆく道は壷屋部落の中へ入って行くような交差する二つの道だったわけです。大城外科の側は道が無くなり、現在の道がグランドオリオンへ続くように整形されているのが現在の道筋です。
大城外科そばに道があったとわからなければわかりにくいですが、現在の道筋も完全に直線化はされていないので過去のおもかげは残っています。

図中の赤い箇所は那覇民俗地図ではビズル嶽(ビジュル)になっていて、確か現在も祠があったかと記憶します。
図は「最新沖縄県番地入地図(74年)」と那覇民俗地図、それに「那覇市壺屋地区における石敢當と集落形態」中の図を参考にしました。

参考:グダグダ(β) 壷屋の旧道(1920年代)

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