忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

塩田

前島の塩田です。
塩田

時期により違うようなのでざっとした図でしかないのですが、「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」の9ページにある「戦前の泊の図」から泊病院付近と新屋敷、那覇市史でアカチラバル(赤面原)が塩田であったという記述があったのでそれを加え、「わったぁ兼久」から「戦前の兼久位置図」を参考に兼久付近の塩田、そして「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」8ページの「明治初期の泊」から那覇潟原も加えました。
結果的には塩田であったことがある地域の図ということになるでしょうか。下図は昭和初期の那覇ですので塩田ではなくなっている場所もあります。


昭和5年頃の塩田
このころは泊塩田における塩の最盛期である。製塩業者は余暇悪天候を利用し安里川流域、潮渡川流域の泥田を開拓し、塩田の拡張を図った。
祖先親譲りの塩田を持たない次男・三男の人々は「当間モウシ」の小作人となり、赤面原で塩田するものもあった
那覇市史 資料編第2巻中の7 p273


この他の那覇潟原の範囲は下図である那覇地図(昭和4)をそのまま使っています。
古海岸線は下の図ですが塩田の地域はすべて海であったことがわかります。
浮島
昭和20年くらいの写真はこんな感じです。
兼久・前島

参考:兼久・前島・泊
参考:兼久(前島)
関連:グダグダ(β) 当間モウシ
関連:グダグダ(β) 当間モウシの事業
PR

明治橋

那覇と垣花を結ぶ明治橋ですがWikipediaがよくまとまっています。
初代明治橋
1883年7月、渡地-奥武山-垣花との間に木橋が完成したのが最初の明治橋だといわれている。しかし台風などの天災のたびに流失した。
2代目(北明治橋・南明治橋)
1903(明治36)年5月に那覇区奥武山の御物城の東側でつなぐ北明治橋と南明治橋がそれぞれ住民から通行料(1人3厘)を徴収する有料橋として完成した。1916年に改修された。しかし沖縄戦で日本軍が上陸する米軍を阻止する目的で南北両橋とも爆破された。


ここまでが戦前の明治橋です。
奥武山奥武山
奥武山でも触れたのですが橋の位置が変わっているのと埋立が進んでいるのがわかるでしょうか。
当時の橋の利用状況ですが海運が盛んだった事もあって物流はそれほど橋を経由していなかったと思われます。明治35年の那覇区は伝馬船が582、琉球船(4反帆以上)48、くり舟37があると記録されています。
新聞記事に明治橋の崩落前後の記事があるのでそれを抜粋します。

明治橋墜落
一昨日午後6時頃の事なり。満潮の寄せ来る波濤と共に、怪しき物音ありしが間もなく、橋の中央より垣花方へかけて凡30間程墜落し、波のため吾妻館の前へ押し流されたり。かくと見るや水上巡査派出所においては一生懸命ボートをこぎ着け検分せし所、白昼のこととて人畜には怪我なかりしとなり。

明治33年3月3日 琉球新報

広告(工事請け負い入札)
1.橋台 4ヶ所
1.木橋延長 138間
1.道路 長29間
右明治橋架設並付属工事請負望みのものは当所受付係に就き、図面仕様書、契約書、請け負い規則及現場熟覧の上、来4月25日正午12時に保証金を添え入札書を差し出すべし。
本契約は島尻郡15ヶ間切組合管理者
島尻郡長斎藤用之助担任す
明治35年3月26日
小禄外14間切組合

明治35年4月3日 琉球新報

明治橋の落成
兼ねて工事中の明治橋は概に落成したれば追て落成検査を遂げたる上落成式を挙行し公然通行を許す筈なるが奥武山公園へ遊ぶもの又は其他同はし通行者の希望に任せて往復4厘の通賃を徴し内々交通を許したれば目下旧3月の節句の事とて昨今同橋往来繁く公園もすこぶる賑わしく春めきたり。(略)

明治36年4月7日 琉球新報

私立昭和女学校

私立昭和女学校は崇元寺の斜め向かい、図のbの位置にありました。戦前のこの場所は川に飛び出ています。
旧崇元寺橋

山梨県出身の八巻太一が1930(昭和5)年に私財を投じて設立した。
なは・女のあしあと p285


沖縄昭和女学校 ⇒ 沖縄昭和高等女学校 ⇒ 沖縄戦により壊滅・廃校
http://ja.wikipedia.org/wiki/旧制中等教育学校の一覧_(沖縄県)


「なは・女のあしあと」では1945年の新聞掲載の生徒募集広告に「昭和女学校」とあるところから正式には高等女学校にはなっていなかったのではないかと推測しています。
ちなみに1945年の募集人数は約80名だそうです。
昭和女学校

家政女学校/積徳高等女学校

美栄橋にあった家政女学校の成り立ちについて説明します。
手短かに言うと大典寺が作った学校です。

沖縄家政実科女学校 ⇒ 沖縄家政高等女学校 ⇒ 沖縄積徳高等女学校 ⇒ 沖縄戦により壊滅・廃校
http://ja.wikipedia.org/wiki/旧制中等教育学校の一覧_(沖縄県)

1918(大正7)年 私立家政女学校(大典寺の庫裏を教室として始められる)本科3年、別科1年
1930(昭和5)年 高等女学校になる(四年制、生徒数200名超)
1932(昭和7)年 美栄橋に移転
1943(昭和18)年 沖縄積徳高等女学校と校名を改める


美栄橋に移転してからの場所はこちら。
積徳/家政
戦前の大典寺の位置は松山尋常小と県立病院の下辺りです。
周囲の道筋は変わっていますが場所は現在の大典寺と変わりないですね。

奥武山

昭和初期の那覇図と米軍の空撮です。
奥武山奥武山

橋が架け替えられていること、それにともなって内部の池の埋立がすすんでいます。
左図で橋が那覇に接している箇所は渡地 (わたんじ)で、写真の架け替え後は東町になります。写真では東町が埋め立てられているのもわかりますね。
10・10空襲後の写真だと山の高低がわかりやすいです。後方が垣花・小禄方面、手前が那覇、奥を流れるのが国場川で真ん中にある島が奥武山です。
那覇上空

【追記】大正4(1915)年の地図画像を追加します。画像は「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」よりダウンロードしたもので切り出して加工してあります。
奥武山

久米村人(クニンダ)の宗家

久米村(唐栄)は久米三十六姓の住んでいた場所でクニンダは住人達のことを指します。
氏は以下の通りです。
蔡氏、程氏、鄭氏、林氏、金氏、毛氏、紅氏
陳氏、梁氏、阮氏、王氏、楊氏、魏氏

http://ja.wikipedia.org/wiki/久米三十六姓

氏(うじ)ではない姓は下記アドレスを参照して下さい。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241188/1/vol05/indexkume.htm
沖縄の姓(家名や諱)のややこしさや決まりなどについてはWikipediaがまとまっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/沖縄県の名字
Wikipediaでは首里の五大姓についても触れられています。
王家分家である向氏、多数の王府高官を輩出した翁氏馬氏毛氏池城毛氏豊見城は、特に五大姓(氏)、五大名門と呼ばれる。
毛氏池城・豊見城を合わせて、四大名門とも言う。

護佐丸の唐名は毛国鼎で毛氏豊見城と毛氏池城の元祖ですが、ややこしいことに久米毛氏の元祖も毛国鼎です。首里の毛氏と久米の毛氏はだいたい久米の方に久米毛氏とつくので(現代の本を読む分には)区別できます。
氏は数が結構あるので同姓もあったはず。

久米村の宗家
図は那覇民俗地図で確認できるクニンダの宗家です(もしかしたら同姓の氏かもしれません)。

【追記】図は那覇民俗地図を模写したものですが、もともとの久米村の範囲は久米大通りの両側で天妃や上之蔵あたりも含みます。
参考:グダグダ(β) 那覇及び久米村図

牧志の牛乳屋

「戦前の昭和初期牧志町民俗地図」と題された図から牛乳屋の印がついた家を書いてみました。
牧志の牛乳屋

牧志町民俗地図にはその他にもレンガ製造場、瓦製造場、牛乳屋、酒屋が書き入れられています。壷屋小学校や牧志ウガンの対岸は製糸工場となっています。
また片倉製糸と書かれたそばには「桑畑 灰焼きガマ(大正年間)」と書かれてあります。小規模な養蚕があったというのを読んだことはありますが牧志ではどうだったのか、またこの桑畑がそれと関係あるのかはわかりません。養蚕も小規模なものだったようなので製糸工場と直接の関係はないのではないかと思います。

牛乳屋は新時代の商売で古くからのものではありません。
たくさんの牛を飼うような規模ではなく家庭で営まれる小さな商いだったようです。

牧志にはレンガ・瓦焼ガマが現在の牧志交番向かいの一角に集中して4つ表示されています(他には蔡温橋付近に一つ)。
長虹堤周辺では牧志の後ろの島小、前島の対岸の川沿いのことについて触れましたが、そこにはいくつかの漆喰屋(ムチヤー)がありました。
崇元寺橋(安里橋)を渡って、牧志の一角に入ると、そのあたりは瓦屋(カラヤー)らしく、民家の軒下には、板のように薄いウミイサー(珊瑚石)だのムチ(しっくい)に混入する切り刻んだわら等が、こんもりと積み上げてあって、一種独特なその蒸れる匂いが、むんむんと鼻をついてきたものだが、大体この辺からは、昔、浮き道、あるいは長虹堤といって海中道路の形をなしていた。
琉球怪談選集 沖縄文教出版 1973

橋を渡って美栄橋へと向かうようすの描写ですから牧志のことではありませんが、島小の地図には瓦屋の表示が不思議とありません(ムチヤーの表示はあります)。
屋根瓦の施工は漆喰も必要としますから牧志の瓦屋と島小の漆喰屋はセットの存在だったのでしょう。

牛乳屋と寄留商人は別項で取り上げたいと思います。

若狭の飲み屋

若狭町は那覇四町(西・東・若狭・泉崎)の中の職人町です。

若狭の代表的生産物である挽き物と塗り物は若狭町大通りの裏側で生産されていたようです。「わかさ民俗地図」を参考にすれば若狭病院の裏手に漆器工場、少し行った先の海側に挽き物細工とかかれた箇所があります。

挽きもの細工(工場)を取り囲むように飲み屋()と食堂・飲食店()があります。ここの横は済廣寺山でその裏手は護国寺と波之上宮です。二つの工場周辺から若狭町大通りにかけては区画の小さな家がぎっしりと立ち並んでいて住民は職人であったようです。
それともう一箇所波の上宮のまえの通りにも飲み屋があります。ここは天孫廟の真ん前で、その前の道路には人力車の駐車場があります。

また若狭町の表通りには酒屋、写真屋、タンス屋、塗料屋、床屋、かんざし屋、洗濯屋、風呂屋、提灯屋、雑貨店、塗物店などがあり、辻に近い箇所には風呂屋が2軒ありました。このあたりには生活人相手の販売と遠方から来た人間を相手にする商売の両方があります。
また波之上宮前と停留所そばの二箇所と少し離れた那覇商業近くには人力車の駐車所があります。

那覇市史には「西武門は久米大通りと若狭町大通りの接点、電車の上り線、下り線の待避線になっていて大きい停留所の一つであった (p34)」と書かれています。電車のことはよくわからないのですが単線での退避場所だったのでしょうか。
停留所のそばである交差点角には食べ物屋が何件もあります。
井筒屋と手打屋はたぶんそば屋ですが、田舎から来た人達がそばやジューシーなどを外食していた記述はよく見かけますから通行量の多い交差点側のこの店も商いを終えた人達の腹を満たしていたのでしょう。

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]