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立法院

現在の県庁の敷地にあった立法院です。
現在の県庁よりも緑が深くて敷地にも余裕があったような記憶があります。


写真はこんな感じ。左の方が現代に近く、右は1955(昭和30)年頃らしいです。
立法院立法院(1955)
那覇市内のバス(銀バス)は那覇高校前を通って立法院そばを通るのが多かったのですが、大概渋滞していてこの建物を横目で見つつうんざりすることになるわけです。あの頃は夕方どきに山手線並みの込み方をしていたことがあった(今は知らない)。

1952年4月1日、定員31人(任期2年)の議会として発足。
1953年12月26日、奄美地区が日本に返還される。
1954年2月1日、民政府布令第57号「立法院議員選挙法」改正第5号により、立法院議員の選挙制度が「中選挙区制」から「小選挙区制」になる。また、民政府布令第68号「琉球政府章典」改正第6号により、定員が29人となる。
1954年7月29日、立法院新議事堂が完成し、移転する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/立法院


Wikipediaを参考にすると1955年は完成直後のようですね。この建物は「立法院議事堂」で、復帰後も「県議会棟」として使われていましたが1999年に取り壊されました。
あの辺りは面影はあまり残ってません。道路沿いの緑地にソテツやガジュマルの緑が見えてなかなか趣のある場所だったんですが新しく開発したところはどうも緑が薄くなります。
それと復帰前、というか琉球政府時代のことを忌むような風潮もあって保存にも消極的だった記憶があります。(復帰前からあった)那覇市役所ももうありませんしあの時代の遺産というのはほんとに少なくなって来ています。


余談ですが星克(ほし かつ 1905.4.9-1977.5.25)が最後の立法院議長だったんですね(1968年12月7日-1972年5月14日)。名字でわかりますが沖縄の名字ではありません。
この人は新安里屋ユンタで有名ですが共産主義政党調査特別委員会でも有名です。

沖縄県民は復帰の1972.5.15とサンフランシスコ講和条約(1952.4.28発効)の関係、9.7の降伏調印と6.23の牛島司令官自決のズレの理由もちゃんと憶えておきましょう。
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