ユーチヌサチ・スーヌサチで少しバクチャヤーについて触れたのですが調べたので書いておきたいと思います。
バクチャヤー
<博打屋>のこと。辻原墓地帯にあった一大洞窟を指していう(現那覇市西町 沖縄ガス付近)。琉球国旧記[1731]によれば「那覇の北、一洞窟あり、深くして風雨を遮る。人屋に似たり」として昔、多くの博徒が集まって博打を打ったところからこの名がついたとある。その後墓地帯となったが、第二次大戦前までは乞食などがここで雨露をしのいでいた。洞窟の上は芝生が生え旧暦三月三日のお重びらきには格好の場所でもあった。
沖縄大百科事典
図では
dと書いてあるスーヌサチの後ろってとこでしょうか。沖縄ガスのgoogle mapリンクです。
google map :沖縄ガス 沖縄県那覇市西3丁目13−2過去記事の
辻原から引用(の引用)します。
1951年から行われた那覇市若狭町、辻原の墓地整理事業をあげることができる。那覇の若狭、辻原の各墓地群は沖縄を代表する墓地として戦前から有名であったが、1951年に米軍の軍命をうけて、那覇市都市計画課がその撤去事業を開始したのである。米軍の意図は、両墓地の土を掘削し、その土を用いて泊護岸の埋め立て・整備を行うことにあったようである。
戦後沖縄の火葬 : 那覇若狭町、辻原の墓地整理をめぐって/加藤正春泊の埋立用に名高い名跡の辻原墓地をぶっ壊したということです。
スーヌサチ /suunusaci/(名詞) 地名 潮の崎
地名。辻の名所であった岩壁のこと。戦後、開発によって削りとられ、現在は平坦な土地となっている。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50896スーヌサチは岸壁ということですが、波の上は岸壁で、ユーチヌサチも岸壁(だったらしい)ですから海沿いの一帯は石灰岩の岸壁が連続していたのでしょう。波の上にも洞窟があるらしいですけども、洞窟はだいたい石灰岩の土地にあるものですから辻原の岸壁沿いに洞窟があることは不思議ではありません。
バクチャヤー /bakucajaa/
那覇若狭にあった貧民窟。こじきやハンセン死病患者。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN30120那覇に限らず療養所ができる前は死病・業病として恐れられたハンセン病の患者は人里から少し離れた海岸等に隠れ住んでいたという記録が結構ありますからこれも不思議ではありません。那覇の大繁華街からほど近いバクチャヤーは都市のおこぼれを貰うには最適の場所だったのかもしれません。
東京の四谷鮫河橋とかを思い起こさせる話です。
PR