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渡地 (わたんじ)

那覇市の通堂町(とんどうちょう)<現那覇埠頭>の一角にあった、かつての小島。垣花(かきのはな)への渡り口になっていて、山原船や馬艦船(まーらんせん)が多く停泊していた。1700年代に硫黄城と一つの島となり、明治初年、本当に接する陸地となった。埋め立てられた一帯は、宿屋や商社が建ち、倉庫が設置され黒糖や蔬菜の出荷でにぎわった。現在は東町の一角にある。

引用元は沖縄大百科事典かとおもいますが失念。

戦前の那覇の中心は今と全然違い、市役所や市場は東町にあり渡地も賑やかな場所でした。
与那原へ向かう鉄道もこの辺から出発していますし、北部から運ばれて来る薪なども那覇港に入りました。
通堂町

辻に統合されるまで渡地・仲島・辻の三箇所に遊郭がありました。
この三箇所のうち渡地と仲島(下泉)は那覇港のすぐ近くに存在し、格が低いとされています。これは那覇に来る各地の商売人(田舎の人達)が主に利用するということからくるものでした。
那覇の古海岸線
遠い過去には離れ島として存在しています。
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十貫瀬(ジツクワンジ)

七つの墓の前の岩丘のところを、俗に十貫瀬と称えてゐた。『昔旅人あり、銅銭十貫文を岩上に置き忘れ、数年の後に訪ね行きしに、もとのままにありしとて、斯く呼びなされた』という伝承がある。 又琉球国由来記には
十貫瀬、牧志邑ニアリ。
『昔旅之人、コノ辺ヲ通過スル時、忽チ早雨ニ遭フ、暫ク雨ヲ其ノ下ニ避ケ居ルウチニ、ソコデ帯ビヰル十貫文銭憶ヱズ石ノ上ニ置キ遺レ、而シテ開船回去ル。 嗣後ソノ人亦来ル、隅々コノ路ヲ過グルノ時、往イテ而シテ之ヲ視ル。コノ銭旧ニ依リ猶在リ、故ニ之ヲ名ヅケ十貫瀬ト曰フ』
とあるが、このまま信ずることは出来ないが、しかしこの地名については考える余地はない。
亦この付近の小字を十貫瀬の前と言ふ。
古へ、この付近一帯が海中であったことは勿論であるが、今尚ほ海水浸食の跡歴然たるものがある。俚諺に

十貫瀬道をて 親も子も にやはいばい。(親知らず、子知らずの十貫瀬道)


元ダイエーから崇元寺に抜ける道あたりのことです。
戦後は飲屋街でしたが今は寂れてしまいバラックのとり壊しが進行中です。

七つ墓(ともいやま)

美栄橋と崇元寺との中間、浮道の東側にある岩丘で、その上に七カ所の古墳があるが、それに因んで俗に七つ墓と呼ばれている。
この七つを支那人脩して七星山と唱えていた。李録に
『七星山俗名富盛山』とあるが、これは『富盛辻の瓦屋』と呼ばれて壷屋、新村(ミイムラ)以前に、牧志瓦屋のあった土地でこれよりやや裏手に続く丘陵の事で、七星山とは別個である。

 七つ墓はモノレール美栄橋駅の近くの標高20mくらいの小さな丘です。ちょうど高良楽器の斜め向かい位。 この辺は長虹堤のすぐそばなので元海岸線です。ここから58号側はほとんど海でした。 海岸線の岩が多く土が薄い所の常として周囲は元墓地が多い所です。緑が丘公園、パラダイス通り、国際通りにかけては緩やかな丘陵になってますが墓地地帯でした。 いまでも残された所々にお墓があります。

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