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長虹堤周辺

前島と牧志の境目であった長虹堤そばの前島島小(シマグヮー)について書いてきました。
島小(前島)
島小 2(前島)
島小 3(前島)
このなかで十貫瀬付近に入り江があり現沖映通り下のガーブ川から通じていたという記述がありました(島小 2)。

十貫瀬飲食街をしばらくゆくと久茂地川沿いの道路とT字型に交差する道がある。
やや大きな溝が流れ、道路の下に暗渠を設けて久茂地川に排水している。
この右手の(略)T字型道は、昭和4年の「那覇市全図」では久茂地川の入り江になっている。
明治10年頃作成の「琉球那覇港及び首里城間之図」では、この入り江はさらに深く入り、現在のダイナハの東側のガーブ川に通じる川になっている。
沖縄県歴史の道調査報告書 〈4〉 p133 (部分的に編集)

島小図

上の記述は「沖縄県歴史の道調査報告書 〈4〉」のp133からの引用ですがp132からも引用して紹介します。

今はこの辺一帯に民家立ち並んでいるが、最近までも左右田圃の相田を4、5尺の高さで走り、浮道の面影をとどめていた。
南島風土記 東恩納寛淳


私が現在の那覇中学校の地点に会った那覇市立商業学校(旧制)へ、首里から約一時間くらいを要して、徒歩で通学していたころは崇元寺橋(安里橋)を渡って、牧志の一角に入ると、そのあたりは瓦屋(カラヤー)らしく、民家の軒下には、板のように薄いウミイサー(珊瑚石)だのムチ(しっくい)に混入する切り刻んだわら等が、こんもりと積み上げてあって、一種独特なその蒸れる匂いが、むんむんと鼻をついてきたものだが、大体この辺からは、昔、浮き道、あるいは長虹堤といって海中道路の形をなしていた。
高さが約2メートルに、道幅がほぼ3メートルぐらいある浮き出た道路の北側は海水にひたされ、干潮時には、それが塩田に早変わりするし、南側は一面陥没した畑になっていて、この辺一帯、昔は海であったという名残りをとどめていた。(中略)
七つ墓のある丘陵の裾あたりに美栄橋が築造されていたが、この美栄橋を渡ると、北側は埋立地の前島町、南側が久茂地町の新村渠(ミーンダカリ)で、この辺には、ウコーヤー(黒く平たい線香作り)だの表具師などが、軒をならべていた。
琉球怪談選集 沖縄文教出版 1973


泊前島誌の「島小周辺要略図(戦前)」には多数の漆喰屋(ムチャー)が記載されていました。

漆喰は石灰を必要としますが昔は珊瑚が利用されたようです。
参考:ムチ/漆喰

>南側は一面陥没した畑になっていて、この辺一帯、昔は海であったという名残りをとどめていた。
引用元の報告書でも低湿地帯であったという結論が出されています。
「戦前の牧志町民俗地図」では沖映劇場があったあたりは湿地帯と記載されています。那覇民俗地図ではむつみ橋から沖映劇場くらいまで(かどうかはっきりしませんが)が畑、その先の現在の美栄橋周辺は土地の利用状況が記載されていません。
ともかく地勢は低地で川沿いの湿地であったというのはまちがいないでしょう。
そこからガーブ川が二手に分かれていたのかは分かりませんが、二つの流れに挟まれた三角形の土地は三角州以外の何ものでもありません。
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