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辻原墓地の土砂

辻原墓地移転のことについて良くまとまってる文があったのでご紹介。
短い文で実質1ページくらいしかないです。

戦後沖縄の火葬 : 那覇若狭町、辻原の墓地整理をめぐって/加藤正春
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007580484
1951年から行われた那覇市若狭町、辻原の墓地整理事業をあげることができる。那覇の若狭、辻原の各墓地群は沖縄を代表する墓地として戦前から有名であったが、1951年に米軍の軍命をうけて、那覇市都市計画課がその撤去事業を開始したのである。米軍の意図は、両墓地の土を掘削し、その土を用いて泊護岸の埋め立て・整備を行うことにあったようである。

事業はまず墓地所有者の協力を得て、墓内の骨の火葬を行うことからはじまった。両墓地の墓の筆数は1700余筆、実際の墓地数はこれよりも多かったというがその実数は役所も把握していなかったようである。市は新聞に広告を出して所有者を探し、その所有者たちとの協議のもとに一斉火葬の手順を決定していった。一連の過程は逐次新聞(うるま新報および沖縄タイムス)が報道しているが、それによれば、人々は市役所が指定した日に、自家の墓内の骨をまとめて臨時火葬場(若狭町、辻原にそれぞれ一カ所づつ設けられた)に運び、そこで市の職員に火葬してもらったようである。その骨灰は市が用意した骨壺にいれ、自家の新墓の用意のない者は市が設置した臨時納骨場(奥武山世持神社内)に安置したのである。
火葬は5月から始まり8月に終了した。その後両墓地は撤去され泊港が整備されて、掘削された両墓地の跡地には新しい街が生み出された。


これは那覇での火葬率の高さについての文で、その高さの一因にこの改葬をあげてます。
ちなみに「真和志市誌」から推定される1954年あたりの火葬率は約58パーセントらしいです。

この時期(1951年)に関しては下記記事が参考になるかと。まとめてみます。
立ち入り制限立ち入り制限(2)から
1951 年(昭和 26 年)
 •東町開放
1952 年(昭和 27 年)
 •壺川、若狭町の一部開放
1953 年(昭和 28 年)
 •若狭町の一部と旧西新町 2 ・3 丁目開放
1954 年(昭和 29 年)
 •旧高橋町一部、旧泊小学校開放、泊埋め立て地落成
 •壺川、久茂地、若狭の軍用地2.4万坪解放
1955 年(昭和 30 年)
 •松下町開放、前島町の軍用地5万坪解放、真和志市を那覇市に合併


立ち入り禁止解除前後・区画整理前の墓地撤去です。返還未定で墓参も不可能(か困難)な地域に墓があったが、開発のために撤去命令が出て移動させられたという状況だと思われます。
【追記】旧那覇市域の解放が遅れたために先に解放された真和志がグチャグチャになってしまったのを踏まえて、解放後も区画整理をしてから住民の移動をするというプランだったようです。

また「米軍の意図は、両墓地の土を掘削し、その土を用いて泊護岸の埋め立て・整備を行うことにあったようである」とありますが、沖縄タイムス社の「戦後の証言(下)」によると沖縄側は護岸などを造り、米軍は浚渫土砂等を大規模な機械を使って流し込んだという発言があります。
護岸を作っている写真が残っています。

那覇まちのたね通信 | 都市計画/泊港南岸
naha.machitane.net/old_photo.php?id=2118

那覇まちのたね通信 | 都市計画/若狭海岸 埋立工事
naha.machitane.net/old_photo.php?id=2117

那覇まちのたね通信 | 都市計画/若狭海岸 埋立工事
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2115
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55年の市道

---- 舗 装 道 砂 利 道 総 数
縦2:横1 延 長 面 積 延 長 面 積 延 長 面 積
18 - 19 呎 2.614 39.672 40.438 567.758 43.052 607.430
19 - 29 呎 13.250 310.300 13.095 297.695 26.345 607.995
30 - 36 呎 2.100 68.400 1.750 55.500 3.850 123.900
17.964 418.372 55.283 920.953 73.247 1.339.325

那覇の1955年当時の市道状況です。 いまだ未舗装路が多く残されているのがうかがえます。

那覇市有地/輸出品目(55年)

那覇市勢要覧(55年)から抜き書き。
市有地の利用割合を円グラフから数値のみ書き出しました。

市有地 276000坪
--------------
軍使用地 3500坪(ママ/35000坪?)
塩田 30000坪
泊埋め立て地 49600坪
拝所 20000坪
賃貸 20000坪
港湾 12000坪
水道用地 16000坪
公園、公共 30000坪
その他 53000坪


拝所が2万坪もあるのに驚いた。軍用地は桁間違いだと思われます。
続いて輸出品目(数値は百の位で四捨五入)。

黒糖 412.2万 (1位)
 1.5万
トマト 6万 (8位)
海人草 16.4万  (5位)
貝殻 56万   (3位)
鰹節 21.5万   (4位)
棕櫚、タバ皮 0.2万
牛馬皮 約4万
泡盛 5.6万
帽体 10.2万  (7位)
宮古上布 3.7万
琉球かすり 0.5万
パイン缶 11.2万 (6位)
畳表 0.8万
くず鉄 138.3万 (2位)
空き缶 2万
空瓶 4万
麻袋 1.5万
-------------
その他 35万


一位が黒糖、二位がくず鉄、三位が貝殻です。
農産物でトマトだけが記載されているのが目を引きます(しかも8位)。そして泡盛はまだメジャーではないですね。
海人草(5位)は回虫の虫下しとして使われるようですから昭和の時代にはニーズがあったんでしょう。今ではなくなってますが帽体(パナマ帽/7位)も結構な輸出額です。
屑鉄も内地の復興ブームには必需品だったでしょうねぇ...

立ち入り制限(2)

立ち入り制限の続き。
抜き書きしてあったノートから立ち入り制限関係を書き留めておきます。

1947年
1月 寄宮十字路の東側一帯と安謝部落に居住許す

1950年
2月 栄町誕生
1953年
10月 国際通りの起工

1954年
1月 泊埋め立て地落成
  壺川、久茂地、若狭の軍用地2.4万坪解放
  具志、宮城両部落の軍用地一部解放
4月 辻町の一部解放
1955年
5月 前島町の軍用地5万坪解放
6月 旧泊、古島区2.4万坪解放
1956年
2月 与儀公園落成
4月 泊二丁目解放
1957年
   漫湖5万坪埋め立て


那覇の立ち入り制限になぜ埋め立て地のことも書いたかというと当時の立ち入り制限地域の多さと土地不足をかなり救ったんではないかと感じるようになったからです。
過去記事のみなと村に55年当時のみなと村の写真があって、それは開南小学校付近から漫湖方面を望むものなんですが更地にコンセットが立ち並ぶものなんですね。当時の58号線付近の写真をみてみると海側(松山、若狭)に何も無いのに対して反対側の国際通り側はすでに市街地化が進んでいます。海側の何も無い少し異様な風景はみなと村からコンセットを取り除いたような風景ですが、その軍用地から1マイル以内は立ち入り制限があるので使える土地面積はさらに減ってしまいます。
那覇(と真和志)で土地が不足する一方土地返還の予定が立たない状況では使用可能な土地の最大有効活用として埋め立てを考えるのは行政として当然のことだと思います。

那覇中学校あたりの道路はきっちり碁盤目になっていますがこれは返還の前にきっちり開発計画が練られたおかげです。主に真和志地区ですが、計画性の無い復興のおかげでスプロールを起こしてしまっている地域と少し住民が落ち着いてから開発された地域との差は激しいです。
しかし開発計画が戦前の道路と違う形で計画されてしまったため東町あたりの旧跡を尋ねる時には道路を当てにすることが全く不可能です(表示はされてるんですが)。
現在昭和中期の建築物が取り壊し時期に来ているのでそのスプロールも解消されようとしていますが、しばらくしたら資料でしか辿れない風景が増えるんでしょうね。しょうがないことではありますが...

牧志のムートゥ(2)

牧志のムートゥに絡んだ図をあげます。
牧志集落図
那覇の空間構造,p61の図に基づき作成。緑が昭和初期の集落分布で青が牧志村創建に関わった子孫です。
前の図では西ヌウタキの側には越来(ギーク)高良が示されていますからこの図とも矛盾しません。
「那覇の空間構造」では屋号の漢字も示されていました。
 •ギーク 越来 <高良家>
 •ウムイ 神歌 <嘉数家>
 •ヤマタイ 山当 <嘉数家>
 •アガリ・ミジハイ 上水張 <高良家>

昭和2年の牧志は人口1701人、423世帯の人間が住んでいたようです。

牧志のムートゥ

牧志近辺の知り合いに嘉数さんも高良さんもいます(笑)
1969年版のゼンリン地図をみてみると、まとまった形での居住はないですがあちこちにちらほらと見えるので他の地域と比べても高良さん嘉数さんの比率は高いんではないかと思われます。
牧志集落遠景図
那覇市民俗地図から牧志近辺をマッピング。
越来がギークでしょうね。ムートゥの家が中心付近にあってムラガー(井戸)もそばにあり東西にウタキがある。
東側を流れる安里川の川辺にはタムンシチバ(薪置き場)が見える。北には泊の市場もあり、新県道(国際通り)そばのガンヤー(龕屋)の前にも市場がある。
集落にはナカミチ(中道)、メーミチ(前道)、クシミチ(後道)があり、メーミチの前にはメーヌ田、クシミチ側にはクシノ田がある。
見た感じ本当に普通の集落で、のちにここが都会のど真ん中になるとはだれも予想しなかったでしょうね。

牧志の本家筋
牧志にはナナムートゥの本家があるといわれている。現在は次のようだ。
 •ウーニ<嘉数家>
 •ギーク<高良家>
 •ウムイ<嘉数家>
 •ヤマタイ<嘉数家>
 •アガリ・ミジハイ<高良家>
 •八幡ヌタカラ<高良家>
以上の六件だが理由はよくわからぬという。七という数字は昔から縁起がよいからでしょうともいっている。しかし屋号からみると新旧の時代の流れや、同姓からは隣接地域との関係も類推されるということだ。
大昔の話 ー 牧志の地は首里と那覇との間に介在するが住む人が無かったとか。それで王府からの呼びかけで当時人口がわりと多かった小禄村に相談があった。ギークの高良とウーニの嘉数が早めに下見に出かけた。ウムイの嘉数は用があって遅れていった。途中で帰ってくる二人が言うにはわれわれの土地は竹串を立てておいたから注意しろと、ウムイが行ってみたら竹串のある二カ所は平坦で地の利の良いところだった。仕方なくそこを避けて杜の傍の斜面に串を立てた。今でもウーニとギークは隣り合っているがウムイは先の両家の前を過ぎて坂道の突き当たりになっている。
那覇市史資料編第二巻中の7、p477

松田橋

現在は無い松田橋。

オレンジ色で図示されているのが県庁でその左側に仲島小堀があります。仲島小堀から延びる道の先に赤く示されている橋が松田橋。仲島大石のすぐそばですね。
那覇市場のすぐ北側に架かっていたようです。

松田橋
松田橋は現在の国際電々ビル付近の久茂地川に架かり、泉崎の仲島小堀(ナカジマグムイ)と東町の仲毛を結ぶ私設橋であった。松田通信という那覇の寄留商人の姓から出たものだという。
松田は松田橋のたもとに屠獣場を設けたがこれに失敗。いろいろの事業にも失敗したため沖縄から姿をくらましたがその名ばかり「松田橋」として残った。
那覇市史資料編第二巻中の7、p400

龍界寺小路・善興寺坂
右端にあるのが松田橋。

那覇まちのたね通信 | 松田橋・泉崎橋/昭和34年(1959) 12月12日/国道58号・松田橋は今水道管が架かる
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3390

立ち入り制限

終戦後の市街地の発展には立ち入り制限の段階解除が尾を引いています。
その辺と土地を巡るあれこれを那覇市のpdfから抜き書きしておきます。
http://www.city.naha.okinawa.jp/sisei/pr/youran/2006pdf/nsy2006_II-5.pdf

1945 年(昭和 20 年)
•陶器と瓦工業復興の目的で男子先遣隊 103 人が壺屋町に入市(11 月 10 日)
1946 年(昭和 21 年)
小禄、真和志への住民移動許可
1947 年(昭和 22 年)
•奥武山を中心とするペリー、壺川、楚辺、松尾一帯に那覇とは別の行政区みなと村を設置
1950 年(昭和 25 年)
•みなと村、那覇市に合併

•米軍、天久、上之屋一帯の立退を命令
1951 年(昭和 26 年)
•東町開放
1952 年(昭和 27 年)
壺川、若狭町の一部開放
1953 年(昭和 28 年)
若狭町の一部と旧西新町 2 ・3 丁目開放
1954 年(昭和 29 年)
旧高橋町一部、旧泊小学校開放
•首里、小禄を合併
1955 年(昭和 30 年)
松下町開放
•真和志市を那覇市に合併

1972 年(昭和 47 年)
•与儀ガソリンタンクの撤去作業開始
1983 年(昭和 58 年)
•小禄金城地区区画整理事業計画決定
1986 年(昭和 61 年)
•天久米軍用地牧港住宅地区全面返還


元のpdfをみてくとわかるんですが東町あたりは軍がつかっていて立ち入り禁止だったようなんですね。うろ覚えですが前島辺りも軍がいて立ち入り禁止だったはずです。
那覇市役所も牧志公設市場敷地、開南、牧志町(4 区)、天妃小学校、現在と移転しています。
そしてその後の大きな変化は復帰を機会とした与儀ガスタンク、小禄、現新都心区域の返還まで待つ事になります。

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