那覇の細民で那覇の下層住民について触れました。
久茂地の河原端(カーラバンタ)、譜嘉地の新村渠、湧田の先、若狭町の東より、牛マチの西側、久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)などは那覇の場末で細民街であった。
那覇の細民街といえば松尾山の下にあった堂小屋敷は有名だ
那覇市史 通史2 p180堂小(以下ドウグヮー)なんですが那覇民俗地図を見ると<東寿寺(堂小)>となっています。ドウグヮーの側の屋敷だから堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)なんでしょうね。

那覇商業高校の向かいの道を下っていった角に拝所のようなスペースがあり、そこが現在の東寿寺跡ですが、戦後の那覇市区画整理で現在地に移転しているようで戦前の敷地は検証が必要なようです。
堂小屋敷に住んでいた久米人(クニンダ)の経済的苦境や貧しい暮らしがうかがえる小説として
「奥間巡査/池宮城積宝」があります。そこでは△△屋敷と伏せられていますが想定したのはこのドウグヮーヤシキだったかもしれません。小説ですので証拠にするにはアレですが青空文庫で読めますので覗いてみて下さい。少し前に沖縄文学全集の小説の巻に収録されてもいます。
出だしはこんな感じ。
琉球の那覇市の街端れに△△屋敷と云ふ特種[#「特種」はママ]部落がある。此処の住民は支那人の子孫だが、彼等の多くは、寧ろ全体と云ってもよいが、貧乏で賎業に従事して居る。アタピースグヤーと云って田圃に出て行って、蛙を捕って来て、その皮を剥いで、市場に持って行って売る。http://www.aozora.gr.jp/cards/000868/files/2689_20502.htmlクニンダに限らないやるせない話でアレなんですがおすすめはします。
参考:
グダグダ(β) 堂屋敷と堂小屋敷PR