久米にあった流れの続きです。
いい加減に書き込んでいたのですが詳細な図を見ることが出来たので書き直してみました。そのまえにこの図。

この図の元地図は昭和初めごろ、紫で那覇民俗地図にある溝を書き込んであります。
この溝は王氏宗家やパブテスト教会の側から始まり、道の側を流れて孔子廟/明倫堂の側で久茂地川に合流しています。

この図だと水色で埋め立てられた場所と示されたところの上、三角形の敷地が王氏宗家となります。図は「琉球の都市と村落/高橋 誠一 」、p83の「昭和初期の久米とその周辺の道路推定図」、p86の「昭和初期の久米とその周辺の景観推定図」、p88、p91に掲載されていた「唐栄久米村とその周辺の景観推定図」を参考にしました。
高橋氏は「埋め立てられた部分」と表示したところを湛水池、流れを水路と表記しており、この流れを風水思想に基づく人工物、あるいは自然にあったとしても図での「埋め立てられた部分」である「湛水池」は掘削されたものではないかと考察されています。
「琉球の都市と村落」は久米の部分だけ飛ばし読みしただけなので何ともいえないのですが、琉球の集落建設での風水思想を中心として考察していますのでそのような論調も当然かと思います。また周囲の標高なども考慮してこの流れが自然発生して出来上がったものとは考えにくいというところにも説得力があります(自分もこの流れは人工物だと思います)。
久米を巡る地勢と風水などおもしろいので是非原著にあたって頂きたい。
またこの本が自分にとって面白いのは過去の地図と米軍の写真、那覇市が過去に作った民俗地図など現物を目にすることの出来る資料で制作されているというとこです。
そして学者さんが苦労しても誤差が出るくらい難しいのだなというのもわかりました。例えばp88とp91の「唐栄久米村とその周辺の景観推定図」は基本的に同じ図でp99の方は米軍空撮写真による修正が加えられています。
この流れ周辺の時系列は、
•湛水池と水路が久茂地川に通じていた
•湛水池が埋め立てられた
•水路も埋め立てられた
•久茂地川は改修され戦前の道路も消滅した(戦後)ということになります。
また水路の側の道路も両岸に道があったようです。この辺は久米を取り上げるときに詳しく書き込んで検討したいと思います(詳細図も手に入ったことだし)。
しかし同じような資料を手にしても学者さんの仕事は丁寧で凄いです。
明治期に存在したが昭和初期には消滅している史跡なども考慮されていて、図の時期を指定するという意味がちゃんとあるもんだなということや明治から昭和にかけての変化が大きかったということを肝に銘じておかないとポカをするということも学習させて頂きました。
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