「戦後の沖縄世相史」から引用します。この本は戦後の新聞記事などをまとめたんだと思いますが犯罪などの暗黒面も含めて書いてあります。
米軍のゴミ置き場だったのを49年4月末に開放されたので、区画し真和志の商業地域にしようと翁長[助静]村長は尽力した。
50年2月に栄町公設市場を開設。トタンぶきで72室あるが、6月に数店を数える程度。
市場の東側は料亭街となり、12月までには四つ竹・よかろう・八千代・だるま亭・一楽など20軒が建ち、宴会は引きも切らず、三線太鼓の音が外に流れた。同年1月11日に再建された沖縄劇場で大伸座がふた明けした。この年、料亭街の東角に沖縄婦連会館が建った。
玉突き屋・ビンゴ屋・マージャン屋ができ、純旅館が十数軒あるが、中には泊まり客でない飲食の接客をする旅館もある。飲み屋が十数件に増え大道通りに商店が並び、栄町中央通りに大丸百貨店が建ち、市場にも入店が増加した。
50年、はや栄町に暴力団が横行。栄町は7月自警団を結成し、有給の自警員4人を置いた。
52年に入ると、芝居(沖縄劇場)の不振と不景気で客足がとだえ料亭・旅館・商店の転廃業が続出。その結果特飲街に変貌し売春宿が約百軒、娼婦が数人玄関口に座っている。飲み屋も百軒余。踊り子を抱えた数件の料亭は賑やかだ。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p46、47(省略と編集)
旧那覇の開放がまだですから辻からの人間も栄町にきたようです。
昭和中期のゼンリン地図をみると大道小学校そばあたりには料亭らしき名前、現在の繁華街にはバーなど、モノレール安里駅あたりの下側にもバー街は広がっています。
現代に一番近い時期だと現在の栄町リウボウはバスの駐車場、銀行辺りはホームセンターのサンキューが元ボウリング場の建物のまま営業していました。このボウリング場が沖縄劇場跡です。
51年あたりの地図だと琉球新報も栄町近くにあります。
時を同じくして沖縄劇場が、劇場〜映画館〜ボーリング場〜ダンスホール〜百貨店並の店舗へと変わる。
http://www.sakaemachi-ichiba.net/about_sakaemachi.htmlこのあたりには小さなヤクザの事務所がありますがこの時代の名残なのかもしれません。あまりおおっぴらには語られませんが、本島出身ではない暴れ者たちが暴れまくった時期でもあって、特定の島出身者を嫌う人間はこの時代を経験していることが理由になっていたりします。
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