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大原周辺の工事

1964年3月の市民の友から記事内タイトルを抜粋。

土木建設だより
工業高前のアスファルト舗装
真和志2号線をタール舗装
久茂地川右沿線
ガーブ川の改修工事
具志の排水改善
大原地内の排水改修
栄町に防火水タンク
新しい庁舎の設計も完成
市民の友 1964年3月15日 第163号(抜粋と編集)



記事内容を抜粋。
「工業高前のアスファルト舗装」から。図中のCが工業高校、Bが繁多川交番。
松川停留所の位置がよくわからないので工業高校付近で線はとめてあります。
この道路は、市内松川停留所から繁多川交番にいたる幹線で、長さ962メートル、はば7メートル。アスファルト舗装工事は、工賃24400ドルで、大寛組が2月に着工し、5月には完成の予定。完成すると市内バス路線、学校道路として活用され(略)

「真和志2号線をタール舗装」から。図中のAが真和志支所で緑線は記事内容から推定した2号線。
真和志支所前から、繁多川交番にいたる真和志2号線、長さ519メートル、はば5.5メートルをタール舗装する工事は、市内盛組の請負で、1月5日に着工、5月には完成する。工賃113900ドル。

「大原地内の排水改修」から。Dが真和志琉映、Eが工業商事のだいたいの位置(65年の地図より)。
真和志琉映ということですので、バス修理所(現スーパー)の裏手あたりも入ってるかと思うんですが図には書いてありません。
大原区に関しては過去記事参照。
真和志琉映前から真和志2号線を横断し、工業商事の裏手にいたる大原地内の排水施設が整備されていないため、降雨のたびに住宅に浸水改修を望む市民の声も多かったが、さる1月7日、市内角本組(代表者角本秀次郎)の請負で工事をはじめた。

栄町の記事には「防火水タンクは、火事の場合の水利を各地に設置し消火活動を高めるもので、すでに市内の30ヶ所に設置されている」とあります。消防栓や消防車が未発達だったころにはあちこちにあったのかもしれません。
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部落内道路拡張

識名部落内の道路拡張では1965年5月の識名部落道路拡張完成式典の記事を取り上げました。
今回は前年1月の記事ですが拡張工事が行われている部落名がわかります。ですが「戦前の城下町あるいは古い農村の形」の条件を満たす集落はこれだけではないわけですから、これらの部落も工事が行われているはずです。那覇市内での古い農村は真和志に集中しています。

車も通る明るい部落に
識名末吉町など市が道路拡張
那覇市は今年度の予算に35000ドルを計上してきまった職業を持たない市民を市の失業対策事業で働いてもらっている。
これまでの失対事業は、市内にある空地の草刈や川の清掃、道路の補修が主な仕事となっていたが今年度からは真和志や首里の農家部落の改造事業を集中的に実施、すでに首里末吉町、石嶺町、真和志字上間、字識名の改造が進んでいる。
この部落は戦前の城下町あるいは古い農村の形がそのままのこり、部落内には車も入れない状態で、こんどの部落改造事業で各部落に4米以上の道路を舗装し、交通をさまたげる木や草を刈り取ったため、部落内がみちがえ[る]ほど明るく、便利になり、近郊農家からは好評を受けている。
市民の友 1964年1月30日 第173号(抜粋と編集)


参考として県下の自動車台数と免許保有者数。

自動車台数 60〜69年
14412、17559、22558、28843、32521、41427、54296、70290、84428、96368
免許保有者数 60〜69年
33566、42559、49925、64500、78082、92143、112459、128284、145431、162443
グダグダ(β) 自動車教習所関連


市民の友には部落内道路拡張記事はもう無いようですので60年代の新聞記事などを探せば完成時期などがわかるんでしょう。

参考:グダグダ(β) 那覇はどう変わったか(63年) 4 (真和志の古い集落)
参考:グダグダ(β) 首里から見た真和志

開南交番-平和橋間道路計画

開南バス停から農連そばを通り大洋劇場に至る道路の計画です。

上図は市民の友に掲載の図を模写したもの。ここで取り上げたいのは平和橋ですが正確にどこにあったのかはわかりません。
模写した図から読み取れることをあげてみると、神里原大通りからまっすぐ農連市場に進む道が川と交差する箇所に平和橋があること、平和橋は新設される道路のすぐそばにあることがわかります。ですので上で推定した平和橋の位置は間違っていないと思われますし、大洋劇場裏から平和橋へ真っ直ぐ進む道が推定した平和橋の位置で交差することもこれを裏付けるかと思います。
元図では神里原から来た道は平和橋で開南通り(仏壇通り)にむけて曲がっているのですがこのあたりはよくわかりません。

65年の首都建設事業計画特集
都計幹線道路を新設舗装
那覇市内の道路は、タール舗装を中心とする道路整備5ヶ年計画により、1968年度までには、50%以上舗装整備できる見通しであるが、これは既成市道が対象となっており、都市における交通マヒを根本的に解決することはできないので、都市幹線道路の新設が必要とされている。
そのため琉球政府への財政援助のうちでも、道路新設と舗装整備を重視し、開南交番から平和橋間の道路新設など、32万ドルにのぼる事業が計画されている。
道路新設 開南交番-平和橋間に幹線道路を新設
これは旭町交差点から、那覇高前、開南交番前を通り、平和橋、大洋劇場を経て、神里原十字路に結ぶ都市計画道路で、これを年次計画で実施することにし、65年度には第一次計画として、開南交番から平和橋間に、長さ120メートル、はば18メートルの幹線道路を新設する計画である。
開南通りは、農連市場と南部農村や近郊の農家を結び、旧市街から、真和志方面への通過道路として、市内でも国際通りにつぎ交通量のもっとも多い道路であるが、開南交番から大洋劇場、神里原十字路を結ぶ幹線道路が設置されてないことに、市内交通マヒの大きな原因があるとされており、この道路を新設することにより道路交通を大幅に緩和できるものと期待されている。
市民の友 1964年1月15日 第161号(抜粋と編集)


1952年あと頃の「最新那覇市地図」で平和橋がどうなっているのか見てみました。

那覇劇場横を通る道は直進して川にあたったところで終わっています。平和橋より上流(与儀公園側)には試験場用地があり二ヶ所橋がありました。図には敷地や周囲の道路との関係を考えて図に描いてあります。

戦前の神里原

右は壺屋(1945)で取り上げた「那覇市壺屋地区における石敢當と集落形態」に掲載されている1945年の航空写真に加筆したもので、左図は右写真に書き込んだものをグーグルマップに書き込んだもの。
青ポインタは製糸工場(現壷屋小学校)、黄ポインタは今もある下ヌカー、黒斜線は畑。加工前の写真はこれ

左図での赤ポインタは公設市場でその周囲はイー田です(参照:那覇市旧跡・歴史的地名地図)。イー(いぐさ)は湿地の植物ですからこのへんは湿地ということになります。

地形的には壷屋から牧志に続く丘陵で、丘陵の裾野はガーブ川(南)・安里川(北)の低地に向けて緩やかに下っています。
戦前の旧那覇は壺屋まででしたのでだいたい緑で書いた線から向こう側が真和志村の与儀です。ですので戦後の神里原は真和志村ということになります。
以前取り上げた写真を二つ。
那覇(1945.12)
戦前相当の真和志民俗地図にも浮島通りの国際通り〜丸国マーケット前までの区間はあり、この二つの写真にも写っています。真和志民俗地図では浮島通り周辺には何も無く、写真でも壺屋に集落らしきものは確認できますがそこから先には何も見えません。
神里原は畑だったというのはよく言われることですが再確認してみました。オチはありません。

参考:グダグダ(β) 上陸前・後の那覇 (最下部右写真の掲載サイト案内)
参考:グダグダ(β) 樋川原・神里原

大石公園前周辺

大石公園前の辺りは川沿いの低地と繁多川の丘で複雑な地形になっています。
図は真和志民俗地図を参考に作成。

真和志民俗地図では橋あたりの道は川のS字のそばを通っていたと読み取れるように描かれています。
この付近の図はいくつかあって読み取れる情報が異なっています(ややこしいのです)。一番左が真和志民俗地図、真ん中が「最新沖縄県番地入り地図」、右が「那覇市旧跡・歴史的地名地図」をそれぞれ参考にしたもの。

繁多川の坂道、右下に進んでゆく識名に行く道、左下から来る大石原からの道はどれも同じです。
近隣との関係はこんな感じ。

ウフシ毛から大石公園にかけての高台と川の作ったであろう低地、そこへ上間や識名から他の部落へと繋がる道が通っています。
政府住宅前から大石公園前の道は、繁多川からくる道と識名からくる道、そして上間から下りてくる道をつなぐ道だったようです。そしてこの一帯には集落は無かったようです。

黒丸宗周辺



図は真和志小学校から黒丸宗前の道で、「最新沖縄県番地入り地図」を参考に作成しています。
大きく変わったのは後年黒丸宗になった敷地の前ですが、この前にあった道はもともと濃い茶色で書いたようなカーブを描いていました。寄宮売店前バス停からの今もある細い道から連続しています。
「戦前の寄宮民俗地図」では黒丸宗通りが無く、寄宮十字路からくる道は山幸しょうゆ(戦後から/
寄宮73)のあたりまでしかありません。

以前に書いた黒丸宗・赤丸宗関連。
現寄宮市街地分譲住宅の位置に黒丸宗ができたのがいつなのかははっきりしません(58年発行の地図にはある)。黒丸宗(現寄宮市街地分譲住宅)が現在の敷地になったのはおそらく道路の直線化と同じ時期?
グダグダ(β) 赤丸宗/黒丸宗 2
グダグダ(β) 50年代初期の具志堅醸造所

仮説で話を書いてみます。
(1)まず50年に壺屋近く(真和志郵便局近く)の寄宮に具志堅醸造所ができる。
(2)51年に具志堅醸造所(赤丸宗)は首里へ移転する。
(3)だが52年の沖縄主要地主要商工年鑑には変わらず壺屋近くの寄宮の同じ場所に「具志堅醸造所」はある。この時点で黒丸宗が分裂か?
(4)1958年発行の「沖縄主要都市地図」では現寄宮市街地分譲住宅の位置に黒丸宗はあり、別ページには「本家クロマルソウ 寄宮区 HONKE KUROMARUSHO」とある。

※現時点では52〜58の間に壺屋近くから真和志小近辺に移動して来たことがわかるが時期の特定はできていない

黒丸宗がいつ真和志小近くにできたのか、もしくは黒丸宗通りがいつできたのかがわかればすっきりするんですが...
黒丸宗の住所はおそらく寄宮62か63です。

大石橋・政府住宅前道路

1958年の市民の友から。

大石橋の新設始まる
市土木課では11月12日、市内三原政府住宅前の大石橋(巾員7米、延長4.5米)の新設工事にとりかかった。同工事は近く入札される政府住宅前道路の改修工事(巾員7米、延長200米)と平行して行われるもので、平良組が工事費3200ドルで着工、来年2月12日竣工の予定。橋梁、道路の両工事が完了すれば、来春から真和志小校-工業高校-三原教会までの車両通行も可能で、バス路線の開設も計画されており、付近住民に大きな便利を与えることが予想される。
市民の友 1958年11月15日 第96号
将来バスも通る/大原政府住宅前道路工事始まる
市土木課では、さる11月25日、真和志大原政府住宅前道路工事の入札を行った。この工事は巾員6.30米、延長364米、工賃5800ドルで平良組(平良作吉氏)の手によって来年2月末完成する。これはさきに着工された大石橋の工事とも平行して行われ、将来はバスの通行も計画されているようで付近住民から期待されている。
市民の友 58年12月11日 第97号


市民の友に書かれた工事がどこの区間であったのかを推測してみます。
まずオレンジ色の政府住宅があって、周囲には3つ橋があります。上図でaは51年の沖縄主要地主要商工年鑑(下図)に橋とはっきり書かれてありますし、bも角にあった識名酒造(現スーパー/下図の4)からの道ですから51年にはもう橋はあったと思われます。上図中の赤い正方形は参考のために一辺100メートルで描いてあります。

結論としては最初の図でのcの位置にある大石公園前の橋が新設された橋で、図中の茶線の区間のうちのいくらかが拡張工事されたと考えられます。
59年の松川線(銀バス)で松川線(工高線)を取り上げたんですが、59年にはバスは真和志小から工業高校の区間を走っています。また65年の松川線路線図を見ると真和志小から繁多川までには「真和志小校前 - 黒丸宗前 - 政府住宅前 - 繁多川入口」という順でバス停があって工業高校へ向う経路になっています。
バス停名ももろに「政府住宅前」で道路のそばには政府住宅がありますので妥当な推測ではないかなと思います。

コメントでバス停名を教えていただきました。ありがとうございます。

開南中学校(樋川)

戦前にあった開南中学校(図中のB)。位置は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」で確認できます。
仏壇通り

Wikipediaの開南小学校の項では「同校の敷地には、戦前開南中学校(旧制)が置かれていた」ことになってるんですが、それは泉崎の現在地ではないです。

昭和22年3月31日/沖縄民政府より開南初等学校設置認可される
昭和22年6月6日/壷屋初等学校より当区域の児童,男396人,女382人,計778人を引き取り,元開南中学校跡に校地を設定し,開南初等学校として開校(8年制)職員18人,学級16。
昭和27年3月22日/上泉町の現在の敷地に移転(コンセット14教室を移設)
昭和27年4月1日/学制改革により開南小学校と校名改称
開南小学校ホームページ

http://www.nahaken-okn.ed.jp/kaina-es/ennkaku.html


文部大臣から認可された県下唯一の旧制私立中学校。1936年4月、真和志村与儀樋川原(現那覇市樋川)に開校、第2次大戦で消滅。創設者は志喜屋孝信、中谷善英。県立中学校が4校しかないなか、教育振興に貢献した。
開南中学校 (かいなんちゅうがっこう) - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-40874-storytopic-121.html

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