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陸軍墓地(安里)

陸軍墓地は当初、[熊本鎮台]分遣隊のあった古波蔵村に近接した国場村に作られたが、墓地が荒廃したので安里村に移設した。ところが、「明治42年頃であつたと思ふが、沖縄警備隊区将校団が発起して、県下の有志に寄付を募り、当時216円余の寄附金によりて移管修築した」。その時に「記念碑」が建立された。「記念碑」によると、「明治19年始メテ、コノ地ニ熊本分遣隊ノ派遣」されてから引き揚げるまでに病死した「勇士30有余名」を埋葬している。しかし、その後、この地は荒廃し、陸軍墓地であることさえ知られていなかった。そこで「明治42年沖縄在郷将校団発起トナリ、遍ク義金ヲ募リ」、修復した。
1934(昭和9)年、(略)真和志村が女子師範学校代用附属大道小学校の敷地拡張のため、陸軍墓地の払い下げを第6師団に陳情した。(略)移転問題がその後どのように進展したのかはわかっていないが(略)移転されなかった可能性が高い。
沖縄県史 各論編5近代 p576、577(抜粋と編集)


現在の栄町が一部丘のようになっていてそこに陸軍墓地があったようです。
参考:グダグダ(β) 栄町前史 1

分遣隊は、1874(明治7)年6月に松田処分官に分遣隊の分営建築調査のため少数派遣、1876(明治9)年に25名が派遣、1879(明治12)年に松田処分官に同行して将兵320名と警察官160余名が派遣。その後部隊の入れ替わりなどがあって1896(明治29)年に沖縄分遣隊は廃止され引き揚げたそうです(県史p572、573)。
以下県史から引用します。

なお、明治18(1885)年の「陸軍省年報」によれば、古波蔵村に兵営・練兵場10920坪、病室・官舎4764坪、国場村に小銃射的場1876坪、埋葬地309坪、首里城に分遣隊官舎18831坪が陸軍用地となっている。
p574
1886(明治19)年首里城にある分遣隊兵舎を古波蔵に移転する件が浮上したが、この時点では達成されていない。翌1887(明治20)年には、兵舎、練兵場を15000坪余と建物を県に引き渡す。その時点で陸軍用地は国場村射的場・埋葬地・安里村埋葬地の3858坪余。
※「陸軍省伍大日記」
p575
1898(明治31)年2月4日には真和志間切長・島尻郡長が真和志間切の各村総代の協賛書を添付して分遣隊の練兵場・射的場、国場と安里の埋葬地の拝領願いを陸軍省に提出。26日には県知事も副申して陸軍大臣・内務大臣に提出した。結果古波蔵の兵舎と練兵場が無償貸付された。
※「陸軍省壱大日記」
p575
同年[1898]9月にも、安里村練兵場・射的場の一部の無償譲渡願いが提出されたが、練兵場だけが無償譲渡され学校敷地となった。
1909(明治42)年には古波蔵兵舎敷地を真和志村が農地にするために買収した。この時点で古波蔵兵舎・練兵場はなくなったことになる。
p575
沖縄県史 各論編5近代 (抜粋と編集)


1つの文として続いているのですが注としてつけられた参考資料別にわけました。分遣隊は明治12年から本格的に分遣隊が首里城と古波蔵に駐留、そして明治29年に沖縄分遣隊廃止とともに引き揚げたようです。少数はずっといたかと勘違いしていました...
沖縄での徴兵制適用は1898(明治31)年で、同年3月に那覇松山町に沖縄警備隊区司令部が設置されます。
参考:グダグダ(β) 松山周辺の官舎群

後年与儀タンクとなる場所は「1928(昭和3)年、沖縄勤務演習廠舎及道路敷地として真和志村より4038坪の寄付があり、練兵場用地は買収し、兵舎を新築した」(p584)そうです。
真和志民俗地図では与儀タンク跡に、「(現・古蔵小学校)、兵隊屋、(熊本鎮台分営所跡)」と書かれています。最初に熊本鎮台分営所ができ、分遣隊廃止に伴い引き揚げ、村による農地化のための土地買収、昭和に入ってから再度軍事施設化という経緯です。

また安里の陸軍墓地は、明治初めの熊本鎮台分遣隊派遣のころからあったが忘れさられ荒廃、明治42年ごろ将校団により移管修築と記念碑が建立、沖縄戦までそのままあったが米軍によって整地されてしまうといった経緯のようです。
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安里射的場

1875(明治8)年、射的場は分遣隊兵舎がある真和志間切古波蔵村から国場村に建設された。面積は1876坪余。1890(明治23)年、安里村に練兵場と射的場の用地買収が決定され、翌1891(明治24)年には国場村の射的場の用地は県に引き渡された。(*1)1896(明治29)年、安里村の射的場は「長さ650米幅30米」の、射撃演習中に流弾事故が起こり、しかも近くに往来の多い道路や民家があるという理由から、増築願いが分遣隊から第6師団に申請されている。(*2)
(中略)
現在安里射的場の近くには「練兵橋」の名前を冠した橋があり、射的場跡は小公園になっている。

*1「陸軍省伍大日記」
*2「陸軍省肆大日記」
沖縄県史 各論編5近代 p575、576(抜粋と編集)


文中の小公園は現真和志中・大道小から松川小むけの道にある公園のことで練兵橋は公園のある十字路手前の橋です。下図では赤ポインタが練兵橋、緑ポインタで示した細長い緑色の区画が小公園、黒線でかこった箇所は推定した射撃場です。

戦前の写真。

練兵橋から松川小学校向けの道は戦後のものです。真和志民俗地図では松川小学校一帯に集落はなく、サクマ森と繁多川交差点の高台の間を現在暗渠となっている小川が流れています(現在の小学校前の道とほぼ同じ)。
引用文中の往来の多い道路はおそらく射撃場前を南北に走る道、近くにあった民家というのはわかりません。

1895(明治28)年には、1896年度用射撃演習用の弾薬(略)が支給されている。
このことでもわかるように、射的場では毎年のように実弾を使っての射撃演習が行われていた。1928(昭和3)年9月10日付『沖縄昭和新聞』に「賑つた射的大会」の記事がある。記事には安里射的場で演習部隊主催の射的大会が行われ、県知事列席の下、現役軍人、在郷軍人、男子中学生、女子師範学校生徒が参加したことが記されている。
沖縄県史 各論編5近代 p576(抜粋と編集)

平野区の位置


琉球新報に平野区が区誌作りに取り組みはじめたというニュースがありました。
上図は掲載された図を参考に作成してあります。

那覇・平野区 苦難の歴史、後世へ 区誌作り取り組み - 琉球新報
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-191128-storytopic-5.html


平野区が戦前から存在していた集落だと勘違いしていたのですが、記事では戦後山原にいた那覇からの避難民が現新都心に移住し、米軍による立ち退きで寄宮に移動したということのようです。
ということは平野は那覇出身者で構成された戦後の寄り合い部落ということですね。どこの出身者が中心になったんでしょうか。
※間違いがあった記事は現在非公開にしました(後日修正予定)

範囲を見ると那覇国際高をだいたい中心として銘苅小と新都心公園を含む一帯のようです。平野区の地図が存在しないため自治会長の記憶を基に作成されたようですが、戦前の現新都心一帯は目印になる丘や多和田川などがあるのでそこを基準とすればそれほど狂いのないものになっているだろうと思われます。ちょうど安謝・天久・上之屋の中間くらいになるのかな?

きぶんじゃ川・三原川の改修工事

65年の建設事業計画で取り上げた川の改修工事の区間を図示してみます。

きぶんじゃ川は、真和志三原、大原の開眼橋、三原橋、振興橋を通り安里川へ注ぐ(略)素堀のままとなっているため、流水の浸食が激しく、流域の住宅が危険な状態にある。65年度においては、安里川分岐点から振興橋間の 485メートルを改修を行って、都市防災を予防することになったもの。
---
三原川は松川小学校前より真和志2号線間を流れているが素堀のままとなっている。このため大道練兵橋から上流、真和志2号線までの465メートルを改修する計画を立て(後略)
市民の友 1964年1月15日 第165号(抜粋と編集)


図の上が三原川、下がきぶんじゃ川、図内のポインタは振興橋(A)、練兵橋(B)、繁多川交番(c)、真和志支所(D)です。
真和志2号線については別記事で「真和志支所前から、繁多川交番にいたる真和志2号線」とあるんですが「大道練兵橋から上流、真和志2号線までの465メートル」となると条件が合いませんので繁多川交番から沖縄工業高の道も真和志2号線だったのではないかと思われます。

戦前相当の真和志民俗地図を見ると上図の範囲内に集落の表示はありません。また現松川小学校はサクマ森(一帯は佐久間原)、練兵橋から松川小学校に向けては射撃場があります。
真和志民俗地図ではけぶんじゃ川はクチャガーラグヮー、三原川には名前がありません。
参考:グダグダ(β) 練兵橋
参考:グダグダ(β) 二又原(松川)
参考:グダグダ(β) 字大道の原名(南)(佐久間原)
沖縄主要都市地図(1958年)では練兵橋から松川小学校までしか道はありません。
戦前は畑に素堀の川が流れている状態だったので問題はなかったが、戦後の爆発的な宅地化で改修が必要になったという感じでしょうか。

けぶんじゃ川はケブン川原(識名)に源を発し、三原川は筆山(繁多川)近くの石田ガーが水源ではないかと思われます。
それと三原川は戦後の便宜的な呼称でではないかと想像します。

母子センター通り(69年)

ゼンリン地図69年版での母子センター通り。ピンク色で示した箇所は店舗などの商業関連です。
商店、風呂屋、電気店、食堂、パン屋、プロパン、小鳥店、鮮魚店、理髪店、美容院、化粧品店、履物店、質屋、文具店、玩具店、菓子店、クリーニング店、精肉店、薬局、洋裁店、印刷所、畳屋など。

知事公舎近くということもあってか公共的要素をもった施設がいくつかあります。
宮城原保育園は実業家の金城キクさんが1962年に設立されています。

以下余談。
宮城原の範囲。宮城原は1947年に開放されています。
寄宮
戦後住む場所が無くなってしまった人達は寄宮一帯ほかに移住しています。

現在の新都心、天久・銘苅はいったん開放されていたところを1951年に再接収されています。銘苅にあった銘苅御殿(拝所)は義肢補装具製作所の向いあたりに移されましたが、新都心が整備されてきたので元の場所に戻ったようです。なんですが寄宮の銘苅御殿(跡?)もきれいに掃除されていて現在も拝みに使われているような雰囲気なんですよね。このへんはどうなっているのかよくわかりません。

戦前の一帯。
宮城原はもともと与儀の耕作地だったようですが、戦前に農業試験場用地になっています。公用地なので公的施設などが作りやすく、移住にもすぐ対応できたんでしょう。
47年頃の寄宮
1947年頃。この図は米軍の空撮をもとに作成された那覇市復興地図を模写したものです。
1947年に宮城原が開放された当初は真和志村役場周辺を中心として人が住んでいたわけです。図中赤で示した道は45・46年の地図には存在しませんが47年になって出現しますので、おそらく開放と同時に作られたのだと思われます。この時期は神里原が一番の繁華街だった時期でもあります。

土地収用による行政主導の移住ですから、区画も碁盤目でつくられていて敷地もだいたい一定です。

那覇まちのたね通信 | 那覇(真和志村)/与儀試験場地内移動部落/1950年6月8日、米軍は天久、上之屋一帯の立ち退き命令を出した/写真の移動部落は現在の寄宮1丁目辺り/中央の森は知事公舎裏
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1804

沖縄工業高校

Wikipediaの沖縄工業高校の項がまとまってましたので引用します。

1902(明治35)年6月15日 - 首里区立工業徒弟学校として首里区字当蔵(旧小禄殿内)で開校。
1914(大正3)年4月1日 - 沖縄県立工業徒弟学校となる。
1921(大正10)年6月13日 - 沖縄県立工業学校となる。
1945年4月 - 第二次世界大戦、米軍の空襲により校舎全壊。
1948年4月1日 - 沖縄民政府立工業高等学校として那覇市安謝で開校。
1952年4月1日 - 琉球政府設立により、琉球政府立工業高等学校となる。
1952年12月 - 現在地(那覇市松川200番地/
http://g.co/maps/scdwm)への校舎移転完了
沖縄県立沖縄工業高等学校 - Wikipedia


戦前は首里、戦後は安謝でスタートして1952年に松川へ移動ということです。
現在地は前原(松川)で、戦前相当の真和志民俗地図をみてもなにもない場所です。

終戦後の一高女

仲宗根政善さんの文を引用します。引用元を忘れてしまったのですが...

終戦直後、私はすぐ母校の跡を見にかけつけた。
学校、陸軍墓地、血清所、大道校等がブルドーザーで敷きならされて、白い石粉を敷きつめてあり、その周囲は有刺鉄線が張りめぐらされていた。西南門のあった位置に米軍の衛兵が銃をかまえて立っていた。中はドラム缶の集積所。一箇所塵捨場が掘られていて、塵を満載したトラックが往来して塵をこぼしていた。ひめゆり学園の甍の瓦一つ残さず、石垣の石のかけらもない。
やがて衛兵もいなくなり、金網の下に一輪芙蓉の花が裂いていた。校長室南側にあった心字池のやぶれがさであろう、一面に生えひろがっていた。どうして金網を破ってちん入したのか、あのご老体の富原初子先生が建てられたのである。


左図は安里駅(A)、一高女・女師(B)、陸軍墓地(C)、沖縄県血清製造所(D)で、現大道小は女子師範付属小学校です。

文中の心字池は門の近くにある青い箇所だと思われます。

この図は米軍の作戦図に加筆したものです。ちょうど陸軍墓地のあたりが丘になっているのがわかりますが現在はあとかたもありません。

仲宗根政善 略年譜
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/nkjn/timeline.html

養蚕関係の施設

「那覇市旧跡・歴史的地名地図」と真和志民俗地図から坂下あたりの養蚕関係施設。
AとBは養蚕試験場跡(参照:那覇市旧跡・歴史的地名地図)、Cは真和志民俗地図による瑞泉社。

参考:グダグダ(β) 瑞泉社(製糸)

沖縄大百科事典から。

明治初期には、旧士族のあいだでも養蚕をするものがみられ、さらに1897(明治30)年に、沖縄県は養蚕奨励のため専任技手を農事試験場におき、また場内に桑園を設け、各町村の巡回指導などをおこない、一般への普及につとめた。
大正時代に入り、養蚕は全県下に普及し、とくに第一次世界大戦による絹糸価格の高騰と、21(大正10)年以降の糖業不振から、農家所得の安定確保をはかる手段として積極的に奨励された。28(昭和3)年沖縄県立養蚕試験場が独立、30年には蚕業取締所が設置されて、蚕糸業に関する試験研究および取締期間が整備された。(略)また「蚕糸業法」による組合製糸・瑞泉社の設立もみられ、県下の産蚕処理にあたり、原料生糸を生産した。40年には沖縄蚕業史上最高の502トンの収穫をあげ、養蚕戸数約9000戸、桑園面積1304ヘクタールとなり、重要な副業として発展した。
沖縄大百科事典(省略と抜粋)


同じ項の「原蚕飼育」から。

昭和初期の沖縄の養蚕は、種繭(春蚕、晩秋蚕)と糸繭(夏蚕、初秋蚕)の生産があったが、繭の生産量や販売価格の面から、種繭生産を中心としていた。
(略)
片倉・神栄産業・郡是・昭和・昭栄などの各製糸会社は1929(昭和4)年ごろから、那覇市に出張所を置き、31年には農林省蚕糸試験場沖縄試育所も設置され、増殖事業が開始された。(略)春・秋の種繭のころには各県の蚕業関係研究者や製造業者が来県し活況を呈していた。
原蚕飼育は分場方式がとられ、養蚕家は業者から委託された原種を飼育し、生産した繭を販売する方法であった。原蚕製造高は、37年には原蚕種が全国の12.5%、普通蚕種は1.4%で、全国でも優れていた。売上高は46万5030円、ほとんどが県外移出であった。
沖縄大百科事典(省略と抜粋)


戦前の新聞をみていると蚕関連の広告がけっこうあります。
現代では浦添市が養蚕にとりくんでますね。

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