忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

金丸房吉

昭和12年の沖縄県人事録から。

金丸房吉
公債債権株式売買
襖掛軸書画骨董
那覇市天妃町2ノ13
君は宮崎県川原町の出身、明治18年を以て生る。大正元年に来県し、本県の人となって既に20有余年、此間終始一貫して表具店を経営し、傍ら株式債券仲買店を兼営、黙々として功を急がず遂に今日の基礎を築けり。尚君が株式仲買店を経営せしは大正10年のことにして、本県株式店の濫觴たり。以て同業界の信用大なり。推されて那覇市表具商組合長たり。
趣味は撞球と長唄。


天妃町(昭和4)を見ると大門前通りから久米大通りへ曲がって少し行った左手になるでしょうか。
PR

片山徳次郎

片山徳次郎
1859(安政6)年〜1926(大正15)年
寄留商人。岡山県浅古郡に生まれる。1897(明治30)年那覇在の肥後孫左衛門のすすめで産業視察のため来県し、イグサ、アダン葉の有望性を認め事業家に乗り出した。当初はイグサによる花筵製造をすすめたが、のちアダン葉利用の帽子製造に着目し自ら研究を続けた。まず漂白法に成功、ついでパナマ帽類似の原料繊維の案出に成功する。


沖縄大百科事典の片山徳次郎の項を参照しました。同辞典のアダン葉帽子からも抜き出します(一部不明文字があります)。
児玉利吉についてはこちらを参照して下さい。

従来アダン葉はゴザ等をつくるのに利用される程度であったが、1900(明治33)年児玉利吉が琉球商会を成立して、○タバコや手さげ鞄などの製造を開始した。その後片山徳次郎がアダン葉の漂白方法や帽子製造方法を開発し、1904年特許を得手からアダン葉帽子の製造は急速に発達し沖縄県特産品となった。
製造所数は46にもおよび、雇用労働者数も職工5389人を数え、内職従事者を加えると2、3万人にも達したという。


『都道府県別資産家地主総覧[岡山編1、2]』という本を参照したと思われるページに片山徳次郎の名があります。

岡山縣(岡山市・御津・都窪・児島)一市三郡富豪家一覧表(明治41年)
小田村(柳田、小川、稗田)
10(所得金額 4,000円)
中塚勘一郎(農)、柘野徳太(農)、片山徳次郎(商)

http://www1.harenet.ne.jp/~wawa/K/kojimahugoukaitiran.htm


「博友」第7号の「片山徳次郎と阿旦葉帽子製造業-資料紹介と若干の考察-/望月雅彦」から。
•藍綬褒章を受けた際に提出された書類の1つに経歴書があり、そこに記載されている明治43年の下賜時点の住所は「沖縄県島尻郡真和志村字松川参百四拾九番地」。
•原籍は「岡山県浅口郡富田村字八島69番地」。
•明治16〜24年は神戸市三ノ宮町で竹材樟脳麦稈水産物の輸出に従事。
•明治24〜28年は鹿児島市生●町に移転し輸出業を続けながら花筵に関わる。明治28〜31年までは鹿児島市濱町で竹材麦稈真田●帽子製造に従事。
※明治30年に肥後孫左衛門に促されて沖縄視察
•明治31年に沖縄移住。


関連:グダグダ(β) 片山パナマ帽子製造場(片山徳次郎)

山之内喜左衛門

大正5年の沖縄県人事録からです。

山之内喜左衛門
帽子商会主
大阪市西区南○江二番町 電話西3964番
両面パナマ帽子の発明者として我県の帽子界に令名嘖々たる山之内君は徹頭徹尾奮闘努力を以て今日の大を成せる代表的成功者なり。父喜次郎氏は夙に染料事業に従事して名声高く、現に大阪を中心として和歌山及八丈島に於て製造に没頭しつつあり。君は其の次男にして明治10(1877)年を以て鹿児島市堀江町に生る、夙に一家を成し現に一男一女あり。幼時鹿児島に於て普通学を修め、其13歳の時父君と共に長崎に出で、爾来其経営にかかる樟脳製造に従事して専ら支那人と貿易せしが、数年の後厳父に伴はれて沖縄に来たり、直ちに那覇区石門通に雑貨商を開き、傍ら染料及貝殻類の輸出販売を開始して直接横浜地方と貿易するに至れり。爾来拮居精励以て漸次拡張して隆盛を極めしが、慧眼なる君は夙に阿旦葉帽子の有望なるを知り、遂に明治37年7月を以て之れが製造に着手し、殆んど全力を傾注して業務の拡張を図り、製造数激増するに従ひ那覇区前島町に大工場を新築し、又大阪に支店を設けて直接外国商館と取引を開始せり。其後多年の苦心を以て両面パナマ帽を発明し、之れが特許権を得て益々信望を高め、現に大阪の支店に在りて専ら販売に従事しつつあり。
沖縄県人事録/楢原 翠邦編 (抜粋と編集)


http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50102
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からです。沖縄大百科事典では大正5年頃には那覇の帽子工場を弟の栄之助に監督させて、本人は大阪の支店でパナマ帽販売に従事したとなっています。

明治10(1877)年に鹿児島生、13歳の時に長崎でその数年後に沖縄ですから19歳くらいに来ています。ということは大体明治29年くらいでしょうか。沖縄では石門通りで雑貨商と染料と貝殻の輸出、明治37年からはパナマ帽製造です。

写真は「山之内帽子商店」で画像は下記サイト様よりお借りしています。

大正時代に沖縄に在った企業 (66) - 昔の写真と資料 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/3418693.html

渡辺覚之丞

渡辺覚之丞
1867(慶応3)年生、没年不詳。実業家。
鹿児島に生まれる。1987(明治20)年来県。那覇で吉田商店支配人をつとめ、1908(明治41)年宮古に来島する。平良で渡辺商店を開き、米雑穀、洋品雑貨小売、宮古特産の黒砂糖、宮古上布の買継商を営む。鹿児島市汐見町に黒糖委託問屋をおいて、長男之雄に経営させる。宮古通船株式会社副社長、宮古倉庫株式会社社長、宮古電燈株式会社取締役、第147銀行代理店主をつとめる。
平良市史 第8巻 資料編6 p463(抜粋と編集)


1987(明治20)年来県で1908(明治41)年から宮古ということは21年くらいは那覇にいたんでしょうか。宮古ではかなりの大物だったようです。
この人も本土と沖縄に店舗を持つ典型的な寄留商人ですね。

中尾平太郎

中尾平太郎
1880(明治13)年〜1941(昭和16)年。実業家。
和歌山県海草郡下津町大崎に生まれる。小学校卒業直後疫病で両親死別。大阪の海産物問屋に入り20歳の頃沖縄出身の海産物買継商人に勧誘されて来県。
1915(大正4)年頃那覇東町で中尾商店を開き主に茶を商いながら黒糖買継商も営む。首里坂下に製糖工場を設立するが焼失したため海産物店経営(鰹節、海参、鼈甲、フカヒレ等)。
1919(大正8)年来郡(宮古島)、材木店設立。21年酒造業を始め「菊の露」商標で出す。31年宮古郡酒造業組合長。
平良市史 第8巻 資料編6 p375(抜粋と編集)


1880(明治13)年生の人間が20歳のころに来県ということは1900(明治33)年頃でしょうか。やがて東町で店舗を持つまでになりますが、1919(大正8)年には宮古島へ移ってしまうわけですね。19年もいたのか。
菊の露酒造の沿革にも中尾の文字があります。

昭和3年 沖縄県平良市西里に「中尾酒造」創業
菊之露酒造 | 沿革

http://www.kikunotsuyu.co.jp/campany/history.html

大野八十介

大野八十介
1870(明治3)年〜1931(昭和6)年。実業家。
東京都本郷区駒込千駄木町に生まれる。1983(明治26)年来県。沖縄では初めてユリの栽培試作、アダン葉を加工したバスケット、帽子を商品化し、貿易品として海外へ輸出する。
1907(明治40)年宮古島へ来島。平良で大野商店を創設、雑貨商及び教科書販売取次業を営む。戦前まで大野商店は宮古で唯一の書店として広く利用された。所得税調査医院、宮古商会重役、宮古電燈会社重役、宮古通船株式会社重役。20年宮古物産(24年解散)を設立して代表者となり、15年宮古養蚕組合(34年解散)設立する。
平良市史 第8巻 資料編6 p219(抜粋と編集)


この人は明治26年に来県して同40年に宮古島へ渡るのですが、その間の14年をどうしていたのかは調べられていません。おそらく本島で百合根栽培やアダン葉加工販売を営んでいたと想像していますが確証はありません。

【追記】テッポウユリの輸出については調べられていません。

宮古島の他県出身寄留商人

「平良市史 第8巻 資料編6(考古・人物・補遺)」から他県出身の商人をピックアップします。
表記は<名前|出身地|職業(生没年)>ですが、これらの人の中には宮古島以外でも経営などに携わっていた経歴を持つ人がいますので、職業の項目は宮古島でのものに限りません。

石田幸男|山口|金融(1895〜1979)
畝岡伊勢松|広島|鉄工業(1890〜1943)
大野八十介|東京|大野商店(書店)、雑貨、ほか(1870〜1931)
佐藤富夫|宮城|砂糖委託商、南海商会支配人、料亭経営、市議(1893〜1977)
坂本栄之丞|鹿児島|黒糖生産、材木商、洋品雑貨商、窯業(1895〜没年不詳)
帖佐源治|鹿児島|土木建築請負、材木販売、旅館経営(生没年不詳)
中尾平太郎|和歌山|海産物、黒糖、材木店、酒屋(1880〜1941)
西岡弥太郎(西岡亀吉郎?)|和歌山?|真珠養殖(1888?〜?)
原田直兵衛|鹿児島|商店経営ほか(1867〜1938)
松原文太郎|大島|上布生産、上布買継、宮古電燈、村議(生没年不詳)
山田忠策|和歌山|西の大阪(雑貨、上布)、山田商店/山田百貨店(1890〜没年不詳)
渡辺覚之丞|鹿児島|吉田商店支配人、渡辺商店(1867〜没年不詳)


そのほか単独項目はありませんが松下嘉一郎が「東の大阪」で、「沖縄の都市空間/堂前亮平」によると和歌山出身であることがわかります。

竹野寛才

平良市史を参考にすると1896(明治29)年那覇市西村の生まれ、一中、長崎高等商業学校卒業。1916(大正5)年に台南製糖に入社、それ以降は糖業畑を歩み、戦後も経済界・糖業界の大物として君臨し1983年に没します。
写真では色白細面の人で相当にキツい人であったようです。

竹野寛才氏は姓からすると内地系と推測されるので(今のところ)寄留商人カテゴリへ分類します。改姓した沖縄県出身者の子供という可能性もあるのですが、今のところ出自や親について確定できる情報は探せていません。
またこのブログで竹野氏を取り上げるのは少し違う気もするのですが、この人が県外出身者(の子息)であったなら県内実業家中で最高に成功をした県外出身者(系)という事になるかと思われますので取り上げました。また知ってる人は知ってる問題の当事者でもあります(これについては触れません)。

【追記】この人は具志堅姓ではなかったかと推測しているのですが確証がありません。

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]