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高田茶舗/高田豊

株式会社タカダ(以下タカダ)のページに沿革と創業時の場所が掲載されていました。

大正元(1912)年|高田豊(創業者) 福岡県八女にて3男2女の次男として生まれる。
大正9(1920)年|高田豊、小学2年の時、福岡県八女市より、那覇市東町にあった父のお茶の取引先である屋宜商店に預けられる。(9才〜18才の10年間、丁稚奉公)
昭和4(1929)年|現在の「株式会社タカダ」の前身である「高田商店」を那覇市東町1丁目で創業。お茶を主体として、そうめん、昆布、海苔、缶詰等を商う。
昭和5(1930)年|那覇市東町4丁目の松田橋前に支店を開設。
昭和24年(1949)年|那覇市牧志(現・牧志交番辺り)に合名会社として高田商店を再建。

http://www.takada-inc.co.jp/enkaku/takada-en.html(抜粋と編集)


創業時MAPのページ。

http://www.takada-inc.co.jp/Establishment/e2.html

東町の店舗名で取り上げた沖縄タイムス掲載の「思い出のわが町」での図にも東町4丁目松田橋近くに「高田茶舗」があります。1丁目の店舗は確認できませんでした。
丁目などは東町(昭和4)を参考にして下さい。
戦後の店舗図(牧志大通り(50年代初期))にも高田茶舗の名があります。
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依光年恵

少し前に寄留商人一世の方が皇寿を迎えられたというニュースがありました。

沖縄タイムス | 依光さん111歳の皇寿祝う 石垣・大浜
依光さんは高知県南国市(旧高知市)久礼田出身、1901(明治34)年9月30日生まれ。金物商の夫と戦前に沖縄本島へ、47年から石垣島に移り住んだ。和裁が得意で、若いころから農園をやっていたという。

http://www.okinawatimes.co.jp/article/20120207_29549/


戦前は沖縄本島で戦後の47年に石垣に移住ということですね。興味深いのは戦後の各島が分離されていて行き来も難しい時期に本島から石垣に移っていることです。戦前の宮古や石垣には那覇や本土出身の商人がいて商いをしていましたが戦後は珍しいんではないでしょうか。

以下余談ですがサンエーはもともと寄留商人系の折田商店がスタートです。

1950年(昭和25年)1月 - 平良市(現・宮古島市平良)下里に折田喜作が「オリタ商店」を創業。
サンエー (沖縄県) - Wikipedia


創業者「故・折田喜作」は、サンエーの前身「折田商店」で商売をしていた頃から、将来はお客様に喜ばれるお店をチェーン展開したいという夢を持っていました。
また、「折田商店」のマークは「田(四角)」を○で囲ったマークでしたが、サンエー設立の際により安定した三つの正三角形△に変えました。

http://www.san-a.co.jp/challenge/yougo.asp

古城富太郎

昭和12年の沖縄県人事録から古城富太郎の項です。

君は古城徳三郎氏の長男にして明治5年を以て生る。明治22年亡父徳三郎氏と共に来県し那覇市に定住して染物業に従事し今日に至る。創業実に50年の歴史を有し、本県に於ける紺染業の元祖とも云ふべく、市内屈指の老舗たり、本県染色業界の改良発達亦君の苦心によって成されしもの多々あり。其功績は夙に世人の認めるところであり。今や多年の努力報ひられて家業逐年隆盛の一途を辿り、県下最大の染色工場を有して業界をリードし、更に一段の発展を期待さる。
沖縄県人事録(昭和12年) (抜粋と編集)


昭和12年の「日報の沖縄人名録」にも沖縄染友会組合長として名前があります。

上ノ蔵町2ノ50/組合長 古城富太郎
グダグダ(β) 沖縄染友会

寄留商人所在箇所


左図は新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成で取り上げた図の中から「寄留商人所在箇所」を赤で示し「大正3年当時の海岸線」で色を塗ったもの。右図は昭和初期の地図でもう少し広範囲のものです。
図でよくわからなかったところは赤くしてありません。
また寄留商人はこれだけではないと思われます。

字西・字東を中心とする一帯には、寄留商人による大規模な米穀、呉服、雑貨の卸売店舗、本土商店の支舗、高級旅館、銀行、大通りに面しつつも敷地の狭小な箇所については飲食店が分布する。
海に面する字西の埋地には、海運業者、材木業者、砂糖や肥料関係の移出入業者とその倉庫が集中し、(略)
各戸の敷地が広大な字久米には会社役員の寄留が多く医院、教会などがある。
なお那覇全体に関しては、至る所に県内外出身の相当数の寄留者がいた。商店に丁稚した者はもちろんのこと、医者も好立地の場所に寄留して開業し、寄留商人も更なる適地を求めて移転する事例が見られる。
グダグダ(β) 新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成

濱田平畩

沖縄県人事録(大正5)から濱田平畩さんです。
画像は「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」にある「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」の画像を加工したもの、文は抜粋です。

濱田平畩
那覇区東町2ノ60
君は明治2年を以て鹿児島県鹿児島郡谷山村松崎に生る。亡清兵衛氏の三男にして明治16年養子となって現浜田家を嗣げり。幼時郷里の松崎小学校に修業せしが13歳の時家事の都合上半途退学し、明治14年1月父と共に来県して商業に従事し、爾来実兄と同居して大に家業を励みしが、同31年1月分家して現住所に店舗を構へて荒物繊維商を開業し、年々隆盛を来すに連れて漸次拡張して傍ら銃器火薬等も販売するに至れり。又業務拡張と主に他の有望なる事業常に銓衡中なりしが、醤油業の有望なるに未だ大規模なる設備なく其多くを輸入に仰げるを見て之れに着目し、遂に命じ42年巨額の資本を投じて久米町に醤油醸造場を設けて其醸造販売に努めしが、年々盛大に赴き今や県下の模範を以て称せられ、本業と共に益々隆盛を極めつつあり。君が巨万の資本を擁するにあらずして今日の成功を得たるは、艱難辛苦の賜にして後進者の以て亀鑑とするに足るべし。性温厚荘重加ふるに博識多才の好人物なり。


明治14年の来県は早い方で、沖縄への寄留先は実兄の山下清左衛門の経営する山下商店だったようです(参照:近代沖縄の寄留商人)。
「戦前の久米・天妃町民俗地図」には大門前通りの那覇郵便局と広島屋の間に「浜田醤油」という名前が見えますが(下図)、住所は大門通りを挟んで郵便局側が天妃で向い側が東町になっているので、「東町2ノ60」の位置は市役所の真向かいくらいではないかと思います。これについては後述します。
※沖縄県人事録にある「東町2ノ60」の位置は東町(昭和4)を参照して下さい


西里喜行さんの「近代沖縄の寄留商人」から引用しますが、それによると「東町2ノ60」は新築・移転した本店、郵便局隣は支店となるようです。
「近代沖縄の寄留商人」には西本町の濱田商店の写真が掲載されていてかなり大きな店舗だった事がわかります。東町大火以前の店舗かとも考えられますが説明はないのでわかりません。

新式醸造法を学んで山夕印の醤油を沖縄全県下にひろめるようになり、大正期に入ると、年間千石の醤油を生産するにいたった。業務の拡張をつづけた浜田は、1913(大正2)年には東町大火の焼け跡(大門前通り郵便局の向い角)に本店を新築・移転し、郵便局の東隣の店を支店とし、さらに久米町の醤油醸造所を経営して生産・販売を兼ねた実業界の大立物としての貫禄をしめした。
近代沖縄の寄留商人 p90


濱田さんは大正17年(13位)、14年(11位)の沖縄県多額納税者、そして第一回那覇市議会議員選挙で当選し再選もしています。

【追記】タイトルで平畩の読みを「へいぴ」にしてありましたが、沖縄県人事録(大正5)では「へいげき?」と読め、大正14年の市会議員候補者告知(沖縄朝日新聞 1925.6.16)では「へいけり」とふりがながつけられています。
下記サイトでは訓のみで「けさ」と読むようです。

参考:畩 - ウィクショナリー日本語版

小沢朝蔵

以前青山書店/小沢書店で少しだけ取り上げた小沢朝蔵さんです。
画像は「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」にある「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」の画像を加工したもの、文は抜粋です。


那覇区会議員
書肆博愛堂主
小沢朝蔵
那覇区松下町1ノ1
君は茨城県行方郡香澄村の人、明治3年を以て生る。亡利兵衛氏の次男にして現に四男三女を挙げ(略)
小学校を卒へて後郷里に於て師に就き漢学を修め、又千葉県英学専攻会に入って3ヶ年を修業せり。其後専ら家業に従事せしが或る事情の為め裕福な一家も破産の厄に遇ひたるが動機となり、茲に発奮して大に期する所あり。即ち明治30年多大の希望を以て沖縄に来り、最初売薬業を営みしに漸次隆盛を来せしかば、更に郷里より梅を仕入れ、又其外驚くべき敏捷を以て巨利を博せり。其後土地整理局時代に時計商に転じ、茲に初めて資金を得て、同36年遂に現書肆を開業し、県下国定教科書特約販売店を為す外、金庫、楽器類及理化学器其他石版印刷の注文に応ずる等愈々拡大隆盛するに至れり、大正3年推されて那覇区会議員となれり。君や来県以来19年、今にして思へば殆ど夢にも似たらん。


沖縄に来てからの変化も面白いです。

三坂栄造

七つ墓の近くにあった三坂ナービヤーの人です。

那覇民俗地図では「ミサカ鍋屋」、字史などでも三坂ナービヤーと呼ばれているのですが、三坂鉄工所などと書かれているものも目にします。
明治末期の工場で引用した明治43年の工場名では「三坂鋳物工場/牧志/三坂市兵衛/明治34.3/砂糖車/5人」となっていて、当時の新聞広告で川畑黙志の工場とともに三坂の砂糖車の広告もあります。
明治末期の工場主は三坂市兵衛となっていますが、昭和12年の人事録では三坂栄造の名だけがありますので世代交代したと思われます。

鉄工業(三坂鉄工所経営)
三坂栄造
那覇市前島町1ノ1
本県鉄工業界に最も古い暖簾を有し、父祖伝来の家業に百尺竿頭更に一歩を進めて隆々たる声望あるを三坂鉄工所主三坂栄造君とす。君は明治30年を以て鹿児島県姶良郡加治木町に生る。少年時代より那覇市に育ち大正8年沖縄県立第一中学校を経て大阪専修高等工業学校に入り、同13年卒業後暫く満鉄に勤務せしが、大正14年退社、家業を継承して今日に及ぶ。当家は先代の頃より鉄工業を以て家業とし、本県同業の元祖にして君又家業を継いで良く之をまもり今日の隆盛を見るに至れり。殊に君は近代科学の洗礼を受けただけに発明心に富み、昭和8年4月及同年10月の2回に亘り三坂式甘藷圧搾機を考案して新案特許を獲得し、本県製糖界への貢献少なからず。
沖縄県人事録/高嶺朝光編 (抜粋と引用)


泊前島誌には昭和32(1957)年当時の地主名簿があり三坂栄造さんの名もあります。

本籍 那覇市前島1の2/調査時の住所 那覇市1区23組/坪数 101,00/名義人 三坂栄造
泊前島誌 p437 (表より抜粋)


昭和26年6月に発行された「最新那覇市地図」を見ると1区23組は今の橋の側辺りか道路だと思われます。「最新那覇市地図」では料亭那覇の後方になっていますので戦後も戦前と同じ場所に住んでいたんでしょう。

参考:グダグダ(β) 戦後の那覇の区
参考:グダグダ(β) 料亭那覇の旧位置

日高栄次郎

「目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版」298ページから八重山に本店のある南海商会の項目。

海産物問屋
株式会社 南海商会
八重山石垣市大川桟橋通り
取締役社長 照屋清栄

営業種目
輸出 貝殻、海人草、角又、アオサ、フカヒレ、鰹節、白椨皮、黒糖、落花生
輸入 肥料、グラニエ糖、農薬、農機具、昆布茶、鰹節


その那覇支店。

南海商会那覇支店
那覇市高橋町1丁目
取締役支店長 日高栄次郎
営業種目 海産物の輸出入商、鮭節、貝殻、海人草、アオサ、角又、黒糖、落花生


日高栄次郎さんは元は古賀商店の従業員だったようです。

もと私の店[古賀商店]にいた南海商会の日高さんに連絡して、なんかいいのを五百個ほど送ったそうですよ。
http://senkakujapan.nobody.jp/page055.html#%E5%8F%A4%E8%B3%80%E5%95%86%E5%BA%97%E3%81%A8%E5%8F%96%E3%82%8A%E6%89%B1%E3%81%84%E5%95%86%E5%93%81


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