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竹野寛才

平良市史を参考にすると1896(明治29)年那覇市西村の生まれ、一中、長崎高等商業学校卒業。1916(大正5)年に台南製糖に入社、それ以降は糖業畑を歩み、戦後も経済界・糖業界の大物として君臨し1983年に没します。
写真では色白細面の人で相当にキツい人であったようです。

竹野寛才氏は姓からすると内地系と推測されるので(今のところ)寄留商人カテゴリへ分類します。改姓した沖縄県出身者の子供という可能性もあるのですが、今のところ出自や親について確定できる情報は探せていません。
またこのブログで竹野氏を取り上げるのは少し違う気もするのですが、この人が県外出身者(の子息)であったなら県内実業家中で最高に成功をした県外出身者(系)という事になるかと思われますので取り上げました。また知ってる人は知ってる問題の当事者でもあります(これについては触れません)。

【追記】この人は具志堅姓ではなかったかと推測しているのですが確証がありません。

竹野寛才
1896(明治29)年10月3日〜1983(昭和58)年8月23日。実業家。戦後の沖縄製糖株式会社の創設者。那覇区西村に生まれる。1911(明治44)年沖縄県立一中卒業後、専修大学に入学。中途で長崎高等商業学校へ転学し、1916(大正5)年3月同校卒業。4月、台南製糖㈱に入社し、以降糖業一筋の人生を歩む。戦前、沖縄には「沖縄糖業《株》」という同名の会社が三社あったが、彼の入社後の台南製糖が、その三社と合併・分離を行うことになる。13年3月資本金300万円で設立した同社は、彼の入社翌年の17年6月、前年の8月設立しこの年操業を行ったばかりの第二の沖糖社を、引き継いで12月には、1910年に沖糖の社名で設立され、操業以来12年台湾へ進出して「沖台拓殖《株》」と改称していた最初の沖糖社をそれぞれ買収合弁し、沖縄の嘉手納・宮古等の分蜜糖工場、今帰仁の白下糖工場及び古波蔵の製○○○○中心に、台湾、本土へと事業地を拡大している。これは合弁三社の株主、役員が重複していたこともあり、また第一次大戦の好況の波に乗って起業の合理化を図ってのものでもあった。しかしながら、大戦景気が静まるにつれて、20年頃から糖業界の布教も深刻化し、27(昭和2)年の金融恐慌の直撃をまともに受けて拡大から縮小へと起業戦略の転換を余儀なくされ、台湾における事業は分離して昭和製糖㈱へ譲渡し、33年沖縄の製糖部門だけで新たに会社を誕生させる。これが去る大戦の戦火に焼かれるまで存続した第三の沖糖社である。かれはこの台南製糖と沖糖社の合併と分離の間、終始会社の中枢に在って、工場長・本社総務部長・支配人と歴任。1952(昭和27)年2月東京で開催の臨時株主総会後の取締役会において、全ての債権、債務及び残存資産を引継いで、代表取締役となり、同年9月沖糖社を再建している。現在の沖糖社の創業である。(中略)またその業績は宮古の糖業ばかりではなく57年石垣島に、大日本製糖㈱と合弁で八重山製糖㈱を設立して、石垣島に分蜜糖業を創始し、さらに62年パイン産業のために八重山食品㈱の設立も行っている。
その他、沖縄土地住宅㈱を設立して会長、沖縄相互銀行・沖縄紙器・琉球製糖・オリオンビール等の役員、商工会議所評議員を勤めるなど沖縄経済界に多くの足跡を残し、70年第六回琉球新報賞、78年11月3日沖縄県の産業経済功労賞を受賞している。享年86。
平良市史第8巻 p342、343(編集と抜粋)

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