大正5年の沖縄県人事録からです。
山之内喜左衛門
帽子商会主
大阪市西区南○江二番町 電話西3964番
両面パナマ帽子の発明者として我県の帽子界に令名嘖々たる山之内君は徹頭徹尾奮闘努力を以て今日の大を成せる代表的成功者なり。父喜次郎氏は夙に染料事業に従事して名声高く、現に大阪を中心として和歌山及八丈島に於て製造に没頭しつつあり。君は其の次男にして明治10(1877)年を以て鹿児島市堀江町に生る、夙に一家を成し現に一男一女あり。幼時鹿児島に於て普通学を修め、其13歳の時父君と共に長崎に出で、爾来其経営にかかる樟脳製造に従事して専ら支那人と貿易せしが、数年の後厳父に伴はれて沖縄に来たり、直ちに那覇区石門通に雑貨商を開き、傍ら染料及貝殻類の輸出販売を開始して直接横浜地方と貿易するに至れり。爾来拮居精励以て漸次拡張して隆盛を極めしが、慧眼なる君は夙に阿旦葉帽子の有望なるを知り、遂に明治37年7月を以て之れが製造に着手し、殆んど全力を傾注して業務の拡張を図り、製造数激増するに従ひ那覇区前島町に大工場を新築し、又大阪に支店を設けて直接外国商館と取引を開始せり。其後多年の苦心を以て両面パナマ帽を発明し、之れが特許権を得て益々信望を高め、現に大阪の支店に在りて専ら販売に従事しつつあり。
沖縄県人事録/楢原 翠邦編 (抜粋と編集)
http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50102画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からです。沖縄大百科事典では大正5年頃には那覇の帽子工場を弟の栄之助に監督させて、本人は大阪の支店でパナマ帽販売に従事したとなっています。
明治10(1877)年に鹿児島生、13歳の時に長崎でその数年後に沖縄ですから19歳くらいに来ています。ということは大体明治29年くらいでしょうか。沖縄では石門通りで雑貨商と染料と貝殻の輸出、明治37年からはパナマ帽製造です。

写真は「山之内帽子商店」で画像は下記サイト様よりお借りしています。
大正時代に沖縄に在った企業 (66) - 昔の写真と資料 - Yahoo!ブログ
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