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泉 長賢

昭和12年の沖縄県人事録から。
※沖縄本島と先島以外の出身者は繁雑さを避けるため寄留商人に分類しています

泉 長賢
米穀商
那覇市西本町5ノ2
君は明治20年を以て鹿児島県大島郡に生る。其初めて本県に来りしは大正8年にて爾来那覇市に定住して米穀商を営み、傍ら醤油醸造工場を経営して今日に及べり。
沖縄県人事録 (抜粋と引用)


昭和12年の「日報の沖縄人名録」では「沖縄味噌醤油醸造業組合」と「那覇米穀商組合」に名前があります。
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木村義雄

昭和12年の沖縄県人事録から。

木村義雄
米穀肥料商
那覇市西本町4ノ23
君は本県海運界の先覚者故木村栄左衛門氏の嗣子にして明治32年を以て鹿児島市に生る。大正8年鹿児島商業学校を卒業し父業を継いで今日に及んで居り、現在家業の傍ら、沖縄近海汽船株式会社専務、沖縄製氷会社専務、那覇商運組重役、那覇米商組合長、沖縄肥料商協会長、泡盛移出商組合長、那覇商工会議所常議員等の要職にあり、県下青年実業家の白眉にして令名頗る高し。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


木村義雄さんは鹿児島生ですが父親は福岡出身のようです(木村栄左衛門)。
役職もかなりありますし大物と言っていいんではないかと思います。

関連:グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) 2

中 雍吉

中 雍吉
沖縄木材株式会社取締役社長
琉球貿易株式会社監査役
国際物産株式会社監査役
明治30(1897)年4月13日生
真和志市安里2区7班
氏は那覇市松山町の出身。大正4年3月沖縄県立第一中学校を卒業し同年慶応義塾大学理財科入学、同7年病気のため中途帰郷す。後兄二人と共に家業中屋材木店を経営したが昭和16年全国木材商統制されるに当り廃業、同時に鹿児島、沖縄の両県に依る統制会社鹿沖木材株式会社設立と共に常務取締役沖縄支店長に就任す。更に昭和17年沖縄木材株式会社を創立、専務取締役に任じて終戦迄活躍多大な成果を収めた。その間沖縄本島内統合造船会社沖縄造船工場代表並に沖縄造船組合理事長に選任された。
終戦後沖縄木材株式会社取締役、琉球貿易株式会社監査役、国際物産株式会社監査役、合資会社沖縄綿花商工社(キラク)役員、琉球商工会議所理事、沖縄木材商協会副会長、沖縄輸入商協会理事、中屋材木店経営等々の現役職を兼務し八面六臂の活躍を続けている。
【家族】妻祐子55、長男一晃22(中屋材木店経営)、長女律子7
琉球紳士録 1962 (抜粋と編集)


この人は3世ではないかと思われます。
参考:グダグダ(β) 中屋材木店 (中 孝徳、中 宰輔)

戦前久茂地河沿いにあった中屋材木店は写真が残っています。

那覇まちのたね通信 | 那覇(商店)/中屋材木店全景/戦前(1935年頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1031

一箭孝三郎

昭和12年の沖縄県人事録から。

一箭孝三郎
呉服雑貨商
那覇市天妃町大門前通
君は奈良県の出身、本県の人となりて既に30有余年、即ち明治40年平尾分店店員として初めて来県し、後本店に転じ勤続すること19ヶ年、遂に大正8年独立して門戸を張りイチヤ商店を経営今日に及べり。
【家族】妻のぶ子さん(明27)、長男友三郎君(大7)あり、一子友三郎君は目下大阪佐々木商店に実務見習い中なり。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


平尾も寄留商人では少数派の奈良出身ですが奈良から人を雇ってたんでしょうか。大門前でも平尾本店の隣が一箭の店舗となっています。
参考:グダグダ(β) 大門前通りの商い
参考:グダグダ(β) 大門前通りの店舗名

友井熊太郎

昭和12年の沖縄県人事録からです。

友井熊太郎
醤油味噌醸造業
那覇市久茂地町2ノ60
君は明治15(1882)年原籍地熊本県熊本市春日町に生る。大正7(1918)年に来県、那覇市に定住して醸造業に従事今日に至る。
長男新太郎、次男眞吾の両君夫々一年志願兵として入営し何れも陸軍予備少尉たり、長男新太郎君は目下久茂地在郷軍人分会長の要職に就けり。
【家族】妻菊子さん(明28)、長男新太郎君(明41)、次男眞吾君(明44)、三男眞三君(大4)、長女君子さん(大5)
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


36歳のときに妻と子供4人をつれて来県ですが醸造業はそのころからやっていたんでしょうか。人事録発行当時の昭和12(1932)年だと50歳くらいになります。
昭和12年の「日報の沖縄人名録」から沖縄味噌醤油醸造業組合

組合長 山田親徳
---
久茂地町2ノ60/幹事 友井新太郎
久茂地町2ノ60/友井熊太郎
日報の沖縄人名録(昭和12年) (抜粋と編集)


国場組社史掲載の「昭和初期の那覇市街図」にも「友井正油店」があります。

山下友輔

山下友輔
和洋食料品商(兼山商店経営)
那覇市東町1ノ4
君は明治26年を以て鹿児島県谷山町に生る。明治39年に来県し、同44年那覇市立商業学校を卒業するや、直ちに濱田商店に勤務して実務に従事し、大正6年8月自ら現業を営みて今日に至れり。全国有名食料店、荒物、雑貨類の卸を主として、キリンビール、銘酒月桂冠、森永ミルク、キツコウマン醤油の特約店たり。家業逐年隆盛を極め屈指の有名食料品店として同業界に重きをなす。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


山下さんは13歳くらいで来県して商業学校を出ています。
この人は恒吉得造のところで名前が出てきました。

君[恒吉得造]は明治35年を以て鹿児島県谷山町上福元に生る。山下友輔氏の令弟にして大正10年那覇市立商業学校を卒業し、同15年1月現業を営んで今日に至る。
グダグダ(β) 恒吉得造


恒吉さんにも同じような教育を受けさせていますね。

山口森清

昭和12年の沖縄県人事録から。

山口森清
建築請負並に製材(山口組丸合製材所経営)
那覇市旭町26
君は明治21年を以て鹿児島県日置郡伊作町に生る。大正3年に来県し建築請負に従事、昭和9年丸合製材所を経営して今日に至る。山口組の名は県内各学校請負工事を以て広く知られて居り、代表的工事として真和志野陸軍演習廠舎、県病院等あり。(中略)尚昭和9年以降君のてに移れる丸合製材所は植木新太郎氏との協力により業態著しく改善され、樽板其の他の製造に好成績を挙げつつあり、将来を期待さる。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


参考:グダグダ(β) 旭町の店舗名

昭和9年以降に入手した丸合製材所は砂糖樽用の木材加工等もしていたということですね。
また「真和志野陸軍演習廠舎」は現在の古蔵小学校となっている場所だと思われます。

1928(昭和3)年、沖縄勤務演習廠舎及道路敷地として真和志村より4038坪の寄付があり、練兵場用地は買収し、兵舎を新築した。
沖縄県史 各論編5近代  p584(抜粋と編集)

帖佐武二

昭和12年の沖縄県人事録から。

帖佐武二
土木建築請負業
那覇市旭町
君は明治17年を以て原籍地鹿児島県日置郡伊作町和田に生る。明治42年に来県し、爾来那覇市に定住し、大正4年独立して土木建築請負業を開始して今日に及ぶ。
沖縄県人事録


旭町の店舗名ではよくわからなかったので「○佐」と表記しましたがおそらくこの人でしょう(海沿いの昭和会館の横)。

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