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沖縄製帽のようす

上江洲由正さんの「大同火災と私の人生」から帽子に関する箇所を抜出します。

私[上江洲由正]は大正6(1917)年、父上江洲由清、母マカトの二男として那覇市松下町2丁目13番地で生まれた。
私の家は、現在の場所でいうと、国道58号から旧琉球石油本社に抜ける通りの真ん中辺りにあった。父・由清がパナマ帽子の製造販売をしていた関係で、宅地はかなり広く,庭先にパナマ帽の原料を漂白するための池があり、干場もあった。
学齢期になった大正13(1924)年、私は北谷村・屋良小学校に入学した。那覇の自宅は、沖縄製帽の本社兼自宅のようなもので、嘉手納に出荷場を持っていた。遠く山原や中頭方面で編まれた帽子を集めるのに嘉手納は地の利を得ており、私は幼年時代をそこで過ごしたのである。私の家は嘉手納駅のすぐ側にあり、集めてきた帽子は嘉手納駅から軽便鉄道で那覇に送っていた。 
p2〜p6
那覇市が刊行した「那覇市の産業」によると、沖縄における帽子製造は明治時代に始まったといわれる。明治33年児玉利吉という人がアダン葉を用いてタバコ入れや草履を作って販売したが、明治36年岡山県人中山徳次郎がアダン葉の漂白法を考案しアダン葉帽子製造の端緒になったとされる。パナマ帽は元はパナマやエクアドルなど中米産のヤシの葉を原料にクリーム色に漂白して編んでいた。初期の頃は遠く外国から輸入する原料に頼っていたが、沖縄で自生するアダン葉が原料として登場し、沖縄全県下にいわゆるボウシクマー(帽子編み)が普及するようになった。
私が那覇商業を卒業して家業を手伝うようになったころ、沖縄には7つの製帽会社があった。服部とか帝とか、私たちの沖縄製帽が地元唯一の会社でその他6社はすべて他府県人の経営、つまり寄留商人と呼ばれる人たちだった。何故沖縄の人達の会社が私たち以外に設立されなかったのか?技術や経営能力はあっても資金がなかったのである。第百四十七銀行が那覇に支店を開設して安定した営業をしていたが鹿児島に本店があり沖縄の人が融資を受けるのに条件が厳しくいろいろな隘路があった。私のところは幸い資金の手当を受けたが、沖縄の商人で同銀行から融資を受けるのはわずかな数だと聞いた。
p16〜p18
大同火災と私の人生 (抜粋と編集)


松山の沖縄製帽は上江洲宅のようなものであり、帽子編みは地方にいてその原料配布や製品回収をしていたようです。
自分も勘違いしていたのですが、アダン葉があったから産業として興ったわけではなく、それ以前に外国から原料を輸入して製造されていたようです。そしてアダン葉の漂白方法が考案された事から材料がアダン葉に移行、原料枯渇後は輸入材や紙製代替品に原料を替えて製造され続けたようです。

前記の「那覇市の産業」には昭和4年ごろの帽子製造状数1165戸、職工1340人(男211人、女1123人)と記述されており断然女子が多かった。戸数、稼働人員が那覇市内に限ったものか、那覇市外つまり全県的な数字であるか不明だが、全県的であればもっと膨らんでいたはずである。
私たち沖縄製帽の場合だって遠く本部、今帰仁をはじめ泡瀬、知念辺りまで帽子編みの職人を抱えており、戸数が職人が多数だったことは容易に想像できる。沖縄製帽の自社従業員は30人ほどだった。帽子編みが農村部の子女に人気があったのはそれなりの理由があった。女子の職場のない当時、女たちも田畑仕事に従事するのがあたりまえのこと。そんな時、手足も汚さず、太陽の直射を浴びて色も黒くならずにすむ家の中での帽子編みが出現したので、われもわれもととびついたのである。手間賃も働きによって結構取れることも魅力だったのだろう。
帽子を編む作業場は各自の家の場合もあったが、数人がムラの集会所など一ヶ所に集まって、おしゃべりをしながら作業をする。ラジオとてない農村で若い娘たちが集まって自由に噂ばなしをするだけでも最高の娯楽であり、ましてや異性に関するひそやかな情報も得ることもできた。
原料にしても編み上げた製品も、重量のあるものではない。自転車の荷台に積んで運んでいた。読谷や本部のような遠隔の地になると嘉手納まで軽便鉄道で自転車ごと運ぶ。今考えると悠長なものだが、最も適した輸送手段だった。
家業を手伝う私も原料の配布や製品の集荷などをしていた。嘉手納、与那原、糸満までは軽便鉄道が運行しているのでそれを利用したが、本部方面になると渡久地-那覇港間は船に乗った方がはるかに便利だった。
大同火災と私の人生 p19〜p22(抜粋と編集)


女性史などの証言集ではムラで集まって帽子編みをしたという証言はよく出てきます。
日焼けに関してですが、昔は高級士族の女性は傘をさして歩いていたので、日焼けをしていないというのはステータス感があったのかもしれません。上江洲由正さんの話は昭和に入ってからだと思いますので、すでに傘をさすような人はいなくなっていたとは思いますが...
引用しませんでしたが由正さんが原料仕入れのトラブル解決のため南洋にいったエピソードも書いてあります。
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