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市場の珍商売 1(53年)

那覇市史の戦後新聞集成2(p57)から記事を抜粋します。
売り場を離れる暇もないおばさん達相手の食べ物売りが闊歩している様子です。

こんな商売もある/市場内から拾う珍商売/おかゆやウムニー/何んでもござれ、手鍋さげて売り歩く
那覇の「マチ小」は有象無象の商売地、正式に市当局から使用許可されているものだけでも800名からいるが、その間隙を狙った無免許商売も無数、従って商売の種類もいろいろだ、あらゆる商法が編み出されている。それは生きる苦しみを如実に物語っているともみられるが、ここではそういったことはぬきにしてまずは市場を中心に市内各地にみられる珍商売の御披露といこう...
ミソ汁5円也 “お巡りさんは愛嬌者”とばかり散っては寄り集まっては散っている立ち売り姿はもう見慣れたもの、橋の上や軒先きでテンプラを売るのも珍しくはないが、市場のアンマー達を御客様として煮立てのゼンザイは勿論オカユ、ウムニーから湯豆腐、ソーミンチャンプルーまでかかえてリスのように売り歩いている姿はちょっと御存知あるまい。何かしら収容所時代を思い起こさせるものがある。朝から晩まで坐り通しのアンマー達、なかには弁当持参もあるが、その腹工合が目当てだ、主なものを挙げるとウメボシ1つつけたオカユが5円、サツマイモ2つに湯豆腐1杯10円、ソーミンチャンプルー5円、七輪をかかえて焼き歩くサカナがキウリか沢庵づきで10円、ミソ汁が5円とか10円、ウムニー5円、市場事務所の話ではこの種商売人が数十名も居って同じ味噌汁でも各人で違うというから以上は標準といったところ、この商売にも時間がある。まず現れるのがあさ11時頃のゼンザイといったところ、手提げ鍋からおわんに入れて“ハイどうぞ”と差出す。朝からパタパタ働いてきてホッと一息といった恰好のアンマー達だ、欲しくなるのは当然といったところ。次がこの商売のかきいれどき、つまり中食時間だ。手ぶらできても坐って居て毎日違った物が食べられるとアンマー達はのべていた。お茶はサービス、使ったおわんは後でかえせばよいそうだ。中食が過ぎるとおやつの時間がくる。オカユやソーミンチャンプルー等の売れるのがこの時間。上等品ではイナムドチ等も現れてくる。
沖縄タイムス 1953年1月25日 (抜粋と引用)


ウムニーは芋を潰した物ですがここでは食事としてのものでしょうね。

アタビー通信: ウムニーついでに芋羊羹
http://gajimaru.blogzine.jp/kedaman/2011/03/post_3d0c.html
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改姓広告

長田紀秀の復姓(改姓)広告が月刊琉球(昭和12?)にありましたので抜粋します。

復姓広告
拝啓私共儀此度饒平名姓より自今祖先の長田に復姓致候に付き宜敷御承引願上度此段謹告仕候     敬具
旧姓饒平名  
  長田紀腆
  長田紀助
  長田紀秀
辱知各位


「沖縄苗字のヒミツ/武智方寛」では改姓する場合のパターンがいくつかあげられているのですが、これは先祖の姓に戻すというパターンです。
詳しくは同書を参照して下さい。

関連:グダグダ(β) 改姓した人 (沖縄に無い姓に改姓した人)

那覇と真和志の赤線

那覇市史の戦後新聞集成2(資料編第3巻4)から1953(昭和28)年6月の記事を抜粋します。那覇市史には関連する記事が収録されていないのでどうなったのかはわかりません。

条件付きのオン・リミッツ/4日から一斉に解禁/赤線地帯に標識掲げる
去る4月1日以来実施されて来たオフ・リミッツは、関係市町村の手で『赤線地帯』を設けることによって、初めて禁を解かれることになり、那覇。真和志、嘉手納1市2村を除く他は4日から一斉にオン・リミッツとする旨正式に軍から公表され、2ヶ月振りにやっと解決を見ることになった。(中略)
なお那覇市と、真和志村は協定書を入れなかったが、これは目下の所赤線区域の設定が困難だったためと見られている。
(中略)
微妙な那覇・真和志/赤線地帯、話合いで決めたい
条件づきでオン・リミッツということになったが、さて。この条件設定については各市町村とも頭を悩ましているようだ。こんど協定書を見合わせた那覇市と真和志村当局に意見と対策をきいてみた。
那覇市平良社会部長の話 - 赤線区域を設けよとのことだが、これは実際問題として困難だ。赤線区域に相当するところが現在あるかといっても、それは極めてアイマイだ。それをまとめよということになればそれこそむつかしい。それで5日頃市議会や関係業者と対策を練り、何とか名案を出そうと思っている。
真和志宮里村長の話 - 真和志村は米軍人さん達にはそれほど利用されてもいなかったので、オフ・リミッツもそんなには、応えなかったと思っている。例えば栄町でも、アメリカの人達は余り立ち寄っていない。然もそういったところを赤線区域だと指定することもどうかと思う。今のところ良い考えもないが、那覇と真和志は共同して特定地を決めるようにとの意向もあるので一応、那覇市に問い合わせることにしている。
沖縄タイムス 1953年6月2日 那覇市史戦後新聞集成2 (抜粋と編集)


記事別箇所には「日没後オフ・リミッツを宣言されたが、之は市町村の一部に多くの衛生的欠陥の確実な増加があったため、オフ・リミッツの必要を生じたからである」と司令部が述べています。
また「但しこのオフ・リミッツの解除に当り現在迄有効な夜11時以降の市町村への立入は禁じられることには変わりはない」「オフ・リミッツの立札のある特殊地域には軍関係者の出入りはさせないことに同意した。これに対し市町村長は各村および民警察と協力して売春行為を滞りなく防止することにも同意した」ともあります。
米軍の売春取締りと赤線の設置を同時に言うようなダブスタはわかりづらいですが当時はそんなもんで、これは沖縄の行政側もそうです。

協定書は「中部地区各市町村長(特殊地域のない西原、中城村を除く)と小禄村長」がライカムを訪れ署名しています。西原・中城以外は特殊地域が存在し、衛生上の問題があったために日没以降立入禁止(オフ・リミッツ)になっていたが、その解除のために各市町村長が協定書にサインしたということです。
後段の那覇と真和志の対応ですが、那覇は解放が進んでいるものの区画整理がまだされていない時期です。

参考:グダグダ(β) 旧那覇地区の解放順序 (52年までに大体返還されている)
参考:グダグダ(β) 崇元寺通り(58年)  (泊エンジニア部隊そば、十貫瀬)

真和志は栄町に料亭や旅館がありますが、これらは米軍相手の赤線とは違うように思えます。那覇に米軍がいた時代も売春地帯はあったと思われますが実際どうであったのかの資料は探せていません。
宮里栄輝真和志村長が「那覇と真和志は共同して特定地を決めるようにとの意向もある」と言ってるのがだれの意向なのかはよくわかりませんが、時期などを考えると興味深いものはあります。

戦前の下水道

「沖縄の下水道よもやま話」から戦前の部分を抜粋します。

昭和10年12月、那覇市の下水道事業を実施するため、天妃町に臨時下水道事務所が置かれた。臨時下水道事務所の組織は経理係と工務係の2つの係から構成され、事務所の所長は市の水道課長が兼務するようになっている。
那覇市の下水道事業は特別会計で、昭和10年度の下水道築造のための予算規模は「弐満弐千五百円」であった。
昭和10年に着手された下水道事業は、昭和13年末には、排水管の延長15.9キロメートル、総排水面積90.43ヘクタールの管布設工事が完成している。(中略)
せっかく着手した下水道事業も4年度限りで、昭和14年度からは中断している。理由は、市の財政難も一つであると思うが、特に当時のわが国は、軍国主義で富国強兵をモットーとし、軍事力の増強に意を燃やしていた時代のため、直接、軍事に関係のない下水道事業にブレーキがかかったものだと思っている。
このようなことから那覇市の下水道事業も時代の波には逆らえず、遂に共用開始ができないまま、築造された下水道の全施設は、第二次大戦で破壊されたのである。
沖縄の下水道よもやま話/宮城保信 p4、5(抜粋と編集)


最後の「遂に共用開始ができないまま」というのがよくわからないのですが、工事は進んでいたが使用されなかったということでしょうか。また「供用」が使用開始の意であるかと思うのですが、抜粋は本のまま「共用」にしてあります。

「沖縄の下水道よもやま話」は戦後下水道建設に関わってこられた著者がまとめられた戦後沖縄下水道史ともいうべき本でした。著者の宮城保信さんはコザの都市計画課長、下水道課長から沖縄下水道公社、復帰後は県の土木や下水道関係を歴任されたようです。

花百合採種圃と指導園

「昭和沖縄園芸発達史」から花百合採種圃と指導園について抜粋します。

三、花百合採種圃ならびに指導園設置
花百合は従来何等の施設なく、ほとんど生産者の栽培に任せたのであったが、昭和13年度に採種圃を設け、優良系統の普及を図り、さらに昭和14年度に指導園を設置し、肥培管理の改善を期し、着々高価を挙げるにいたった。
事業の概要は次の通りである。
---
年次|事業別|予算額(円)|設置個所|面積(反)|生産球数(球)
昭和13年|採種圃助成|500|23|20.0|641000
昭和14年|指導園助成|800|32|20.0|
「昭和沖縄園芸発達史」p22(抜粋と編集)


昭和に入ってから行政が輸出・移出作物へのてこ入れを図り、栽培方法や品種等を指導する一環として作られたものが採種圃と指導園だと思われます。
戦争で海外輸出が中断するまで(?)はかなり伸びています。

参考:グダグダ(β) 昭和初期の繁多川の農業
参考:グダグダ(β) 百合に関する数字  (順調に伸びている)

球陽堂

球陽堂を「沖縄・国際通り物語—「奇跡」と呼ばれた一マイル/大浜 聡」(以下国際通り物語)を参考にしてまとめてみます。
国際ショッピングセンター建設以前の球陽堂はこんな感じで、それ以前は松尾の現山城時計店向いにあったようです。

創業者の山田親度さんは1901(明治34)年に松下町で生まれ、師範学校を出て長らく北部で教職に就き、戦時中は喜如嘉国民学校校長です。
本好きの山田はたくさんの本を買っては大切に保存していた。北部で教職についていたおかげで山田は生き長らえた。しかも、戦後、山田が書店を経営する元になった多くの蔵書は、国民学校の校長舎宅に一冊も失われずに残っていたのである。
国際通り物語 p78(抜粋と編集)

この本がのちの元手になります。
終戦後はCP(シビリアンポリス)になるが、元教職ということで1946年に田井等高等学校辺土名分校(英語教師)、翌年奥間初等学校校長に就任しますが1948(昭和23)年4月退職し那覇へ移動。
那覇では宮里辰雄(琉貿社長)と友人関係にあった山田親徳(叔父)に頼み込んで7月に設立されたばかりの琉球貿易株式会社に就職。しかし半年程で退職し貸本屋を始めます。
自分の蔵書が有効に活用できる。一石二鳥だ、と山田は思った。本棚には戦災をまぬがれた『日本文学全集』など、60冊の本がいっぱい飾られた。貸本料金は1冊2銭にした。こうして貸本屋「山田書店」が誕生したのである。
p81
---
琉貿を辞めて半年後。1949(昭和23)年7月7日、松尾でトタン屋根5坪(店の部分はわずか1.5坪)の小屋を建てて、貸本屋を始めた。大黒屋(現在の山城時計店付近)の斜め向い側、松尾街道(国際通り)から少し現在の八汐荘側に入った辺りである。松尾街道に面した所は低い土手があったため、家は建てられなかった。
p80
国際通り物語 (抜粋と編集)

松尾が商売的にはいまいちのため移転を考えていた頃、宮里が訪れ本屋(貸本屋?)をやりたいと言われます。山田も移転を機に貸本屋から書店へ切り替えたいと思っていたようですが、山田は宮里来訪の際には琉貿社長が貸本屋に加わることに否定的で、その時にはいずれ本屋をやる時に加勢してくれということで話は終わったようです。
そして移転地を探す山田は大城鎌吉の土地が売りに出されているのを知り、宮里と叔父に書店の共同経営も持ちかけ同意を得ますが、土地販売がまとまらず没。別候補の牧志郵便局付近の売地はすぐ近くに書店(幸地書店)があったため没。
山田書店の客だった久高将信(久高木材店縁者)に良い土地がないか聞いてみたところ、久高木材店向いが売りに出ていることを知り3人は購入を決定。この土地が冒頭写真の位置で、後の国際ショッピングセンターとなります。
1949(昭和24)年12月に4坪の店舗としてスタート、「球陽堂」という名称は宮里の案。
しかし半年程後にゴタゴタがあり3人体制を解消し1人でやることになる。経営は順調で、その後8坪、11坪と店舗を拡大し、1972(昭和47)年の国際ショッピングセンター建設の時には一階72坪(売り場面積60坪)、2階専門書コーナーは(40坪)の広さになる。
山田親度さんは1985(昭和60)年に85歳で没します。

没後は長男(親夫/琉大教授)が大学を辞めて後継。
国際ショッピングセンター建て替え計画(後に頓挫する)があったため1990年12月に沖映通りに本店(6階建て)をオープン。1996年国際ショッピングセンター店を拡張し、沖映通りの本店を閉じて統合。

ここまでが1998年1月発行の「沖縄・国際通り物語—「奇跡」と呼ばれた一マイル/大浜 聡」の内容をまとめたものになります。この後の話になるのかもしれませんが牧志市外バス停付近にあった2階建ての店舗も自分は覚えています。
国際ショッピングセンター閉店と新都心での開店の時系列などはよくわかりませんが、このブログはだいたい復帰あたりまでをターゲットにしてるのでこれくらいで終わっておきます。
最近球陽堂買収のニュースがありました(2012.08.18)。

全国で書店運営を手掛けるくまざわ(東京都、熊沢真社長)が、球陽堂書房(那覇市、山田親夫社長)を買収し、営業を引き継ぐことが17日、分かった。くまざわは新会社の球陽堂(那覇市)を3日に設立。今後、同社が球陽堂書房を吸収し、資産、約32人の従業員と業務を引き継ぐ。県内にある2店舗、書店名も継続。9月16日から新会社が営業する。
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2012-08-18_37895


個人的にも球陽堂にはお世話になりました。
改めて感謝申し上げると共に歴史も記憶しておきたいと思います。

園芸関係のメモ 2

「昭和沖縄園芸発達史」の巻末資料からの引用を続けます。

園芸作物の栽培技術の普及を図る為県農事試験場の園芸指導園と連絡し左記組合に指導圃を設置し移出園芸作物の生産改良発達に資せんとす
県指導圃設置計画左の如し
---
真和志|国場|蕃茄10反、里芋1.5反|総計25
「昭和沖縄園芸発達史」資料1(p222、223)  (抜粋と編集)


昭和7年の実施計画の真和志は「蕃茄2、茄子1、胡瓜1、冬瓜0、南瓜1、西瓜0、越瓜0、里芋1、甘藷0、菜豆1、木瓜0」。(参照:昭和7年度県立農事試験場園芸指導園配置計画表 p223、224)

割と先進的な規約。

第二条
移出農産物の生産並に販売の改善統一を図るを目的とす
第四条
第二条の目的を達せんが為本組合に於て施行すべき事業左の如し
共同採種圃の設置、共同育苗圃の設置、栽培試験地の設置、生産品の検査施行、生産品の共同選別荷造、出荷に要する諸材料の共同購入、視察員の派遣、講習講話会の開催、展覧会品評会開催、資金の造成融通、優良生産者の表彰、其他総合に於て決議せる事項
「昭和沖縄園芸発達史」資料1(p238)  (抜粋と編集)


資料1は昭和7年、資料2は昭和9年3月。
資料2の「出荷機関統制系統図」を参考にすると<部落生産出荷組合 - 市町村出荷組合 - 共同集荷場>の順で出荷され、この後は本土の販売斡旋所から中央卸市場、そこから問屋・仲買となったようです。
資料2の出荷組合設立成績(昭和9.2現在/p247)を見ると、昭和6年に18、昭和7年に77、昭和8年に120の「部落生産出荷組合」が設立されています。
「都市別組合調」(p248)では組合数合計221組合(5326人)、そのうち島尻郡で109組合(2525人)、那覇で3組合(33人)、首里で12組合(198人)です。
「市町村別組合調 2市10町村」((p248、249)では、真和志村は13組合262人です。

「昭和8年度園芸指導圃設置表」(p273)では真和志は「蕃茄12反、茄子3反、菜豆7反、甘藍3反、大根5反」。
「園芸指導園配置表」(p274)では「蕃茄1、胡瓜1、南瓜2、里芋1、菜豆1、甘藍1」の7ヶ所あったようです。

園芸関係のメモ 1

昭和初期の組合設立や生産方法改善は農村であった真和志に少なからぬ変化をもたらしている印象を受けます。この辺ちゃんと調べられていないのですが、参考のためにいくつか書き留めておきたいと思います。
「昭和沖縄園芸発達史」資料1(の「県下園芸出荷組合長会協議事項 昭和7年9月」から昭和7年9月2日付の知事訓示を抜粋します(知事は井野次郎)。

本県の如く土地が狭少である上に人口が多く而も農業生産を於て県経済の根源となさねばならぬ実情にある土地では出来得る限り耕地の利用を集約的にして単位面積に於ける生産力を極度に発揮せしむることに着目せねばならぬと思ふのであります。県は此の点に鑑み之に関する奨励施設を行ひつつあるが移出農作物栽培の如きも漸く其の機運に向ひ最近では之が移出は年額約四十万円に達する様になったのであります。今後此方面に大に力を致し之が移出を促進せんとするならば必ず生産者の団体を組織し之によって生産の改良を図り其の生産物を共同的に出荷することを根本義となさねばなりません。県は曩に出荷組合の設立を奨励したる結果二市十七町村に亘り其数約七十に達しましたので茲に県下出荷組合長を召集し組合事業の整備充実に関し協議を遂げることにしたのであります。
「昭和沖縄園芸発達史」資料1(p214) (抜粋と編集)


指定した作物を組合で共同育成し出荷量増大を目指す方針のようです。
「協議問題」からの抜粋と、「出荷組合と指定作物」から真和志村の箇所を抜粋。
ちなみに那覇は住吉(百合根)、垣花園芸(タマナ、トマト、ニンニク)、首里は4ヶ所。

移出農産物の品質を向上せしめ斉一品の大量出荷を図らんとせば生産の統制を行ふの要あり即ち適地適作物主義に基き出荷組合の栽培すべき作物の種類並品種を指定し優良種苗の供用、共同育苗、病虫害の共同防除、肥培管理等の改善事項は挙げて之を施し以て生産物の斉整に努めざるべからず依て各組合の栽培すべき主要作物種類並品種を左の通り指定栽培をなし出荷品の品質向上と出荷量の増大を図らんとす
「昭和沖縄園芸発達史」資料1(p216) (抜粋と編集)

---
組合名|所在地名|組合長名|指定作物名
国場|国場|嘉数 昇|ナス、ニンニク、タマナ、里芋、菜豆、トマト、ビート
安里|安里|宮城亀千代|里芋、菜豆、ナス、ビート、ニンニク、トマト、タマナ
大道|大道761番地|富山嘉吉|甘藍、蕃茄、胡瓜、茄子、冬瓜、菜豆、パパイヤ、ニンニク、其他
「昭和沖縄園芸発達史」資料1(p216) (抜粋と編集)

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