糸満出身、明治44年生の金城カネさんが語る糸満宿屋のようすです。
夏は魚が少なくなるので、那覇の向いにある神山島にサザエをとりに行った。渡地にあった糸満宿屋を根城にして、島で雇い子20人を寝泊まりさせ貝をとる。舟一杯になったら宿屋に運び、代わりに食料を積んで行く。4月から9月まで、ずっとこの仕事が続いた。
サザエを勝手にとることは許されなかった。島の持ち主である渡嘉敷村に金を払い、その権利を買うのである。父一人では小さな仕事しかできないので、3人で組を作っていた。雇い子には、サザエ10斤につき2円の花代をあげた。深い海に潜るだけに配当金も多かったのである。
さてとったサザエの処分は、私たち女の出番。糸満宿屋でシンメーナービにゆで、貝殻と身に分ける。ボタンになる貝殻は「仲尾」とか「くがるん」という海産物問屋の寄留商人が買いに来た。身の方はくしに5個づつ刺し、1本2銭で売った。
夜になったら宿屋の姉さんと、花の辻町にこのくし刺しを売りにゆく。「サザエコーイミソーレー」と呼ぶと、芭蕉の着物に紙をきれいに結った尾類が買ってくれる。これでなますを作って、酒のさかなにするのだった。私の毎日は荒っぽい海の男相手。辻に行く時には何か知らない世界をのぞいているようで胸がときめくのだった。
サザエとりの根拠地にした糸満宿屋は魚の集散地にもなっていた。宿屋の女主人である上原のカナーアンマーは商売にも義理にも強くとても賢い人。それでみんなが頼ったのだろう。伊江島や名護、前兼久から舟が入り「売りさばいてください」と魚を持ってくるのだった。那覇で売られる魚の多くはここに集められていたと思う。
カナーアンマーの力で魚を行商する女も20人はいつも集まった。宿屋はまるでセリ市のよう。その舵はカナーアンマーひとりの手で動かし見事にさい配を振るっていた。
私の戦後史 第五集 金城カネ p222、223(抜粋と編集)神山島はチービシですが、そこに小屋を掛けて貝をとったということですね。
貝殻を買っていた寄留商人の「仲尾」はおそらく中尾、「くがるん」は古賀(くが?)ではないかと思われます。
金城カネさんは金城商事の方です。
http://www.kinjoshoji.co.jp/company/history.html

参考:グダグダ(β) かまぼこ
参考:グダグダ(β) カマボコヤ
参考:グダグダ(β) 貝ボタン
参考:グダグダ(β) 古賀商店
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