1980(昭和55)年発行の「郷友会/琉球新報社編」から抜粋します。これは1979(昭和54)年から一年間の新聞連載をまとめたもののようです。
下記抜粋は奄美の瀬戸内町関係から抜粋しました。このブログの範囲である<旧那覇・真和志>とは直接の関連はありませんが、那覇市内では奄美出身者が戦後すぐから商売していますので戦後の歴史をたぐる一環として読んでもらえれば。
瀬戸内町は奄美本島南部に位置する人口約15200人の町。山や海に囲まれた景観の美しい町で、人口は名瀬市(約46800人)についで多い。沖縄本島在住の瀬戸内会は、同町出身者役3000人で組織されている。結成されたのは15年ほど前の昭和39年。琉球政府初代主席、立法院初代議長などを歴任した故泉有平氏らの尽力で誕生した。
「会員の大部分が本籍を沖縄に移し、骨を埋める覚悟で一貫して経済界など各分野でがんばってきた」
会長によると、主戦後に出稼ぎで沖縄にやってきた会員が多いが、なかには中途でくじけたり、家庭の事情で郷里に帰った者も少なくなく、現在残っている会員は“沖縄県人”だけという。
(p307、308)
在沖奄美出身者の郷友会組織のうち、もっとも大きいのが瀬戸内会。現在の会員数は700世帯、約3000人というから、かなりのもの。例えば、名瀬市における奄美群島内の各郷友会と比べても、この数は飛び抜けている。これが奄美分離期間中の出身者となると、現在の比ではなかった。「おそらく、今の10倍はいたでしょう」とは瀬戸内会事務局長の折平男氏の弁。昭和28年12月25日、奄美が復帰すると、出身者の大半がごっそりと引き揚げていった。現会員のほとんどは当時からの残留組である。
(p310)
郷友会/琉球新報社編 (省略と抜粋)奄美出身者は本島を中心に住んでいるとのことでほぼ沖縄本島で700世帯・3000人なのでしょう。戦後は奄美から先に復帰したせいで沖縄県内では「外人」のような立場になってしまった事情があります(引用中の昭和28年)。
復帰前の沖縄での外国籍のあつかいはそのうち取り上げます。
沖縄人の自分からすれば見慣れない奄美の姓(川畑、鎮西など)は一般的な内地姓と区別がつきません(知識不足でもあるのですが)。一字姓だとなんとなく奄美の人かなと思うのですが。
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