デパートの女店員に戦前の様に魅力がなくなったのは、どういうことでしょう。山形屋なんかはお嫁入り候補の最上の登竜門でした。緑色の事務服を着て、売り場に立つ姿は、那覇のモダンボーイのあこがれの的でした。
ネクタイ売り場にいた娘を見染めたある県庁員が、なけなしの月給袋から無理してネクタイを買いに来てはそッとため息をついては変える姿を、わたしは一再ならず目撃しました。
山形屋に右へならいして、マーケットでも、明視堂でも、円山号でも、この事務服スタイルの女店員が、モンペに変わるまで、ハバをきかせました。ことにレコード売り場にいたお姉さん店員なんか、優雅この上もなく、思春期の中学生のわたしたちをうっとりとさせたものです。
巡査はサーベルをつり、機関夫はアゴヒモを締め、市電の車掌は霜降りの制服を端然と着こなしていました。また自動車の運転手は雨靴をはき、女学生はセーラー服、中学生は白い海軍ゲートルとそれぞれ制服のきびしい世界がありました。制服の好きな日本帝国主義の影響だったかもしれません。
沖縄・千夜一夜/徳田安周 p32、33戦前の新聞を見ていると広告が結構目立つのですが、広告にはコートやらシャツやら靴やらが載っていて、意外ととハイカラだったんだなと思わされます。もっとも全員がそれらを手に出来たわけではないはずですが政治・商業の中心地である那覇ではそれらの姿も珍しくはなかったはず。
船越義彰さんがデパート店員にドキドキしていたという思い出を書いていたのを読んだ覚えがあります。義彰さんの話はたしか円山号だったと思うのですが、引用文を参考にすると円山号だけではなくマーケット(たぶんマルメマーケット)や明視堂などの中心部の店舗も制服姿の売り子がいて華やかだったんでしょう。
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