市民の友に那覇市の役所の移り変わりがまとまっていたので抜粋します。
1965年の第181号は新庁舎落成記念号のようになっています。
那覇市のあゆみ
親見世 旧藩時代の那覇四村・西、東、泉崎、若狭の行政全般を管理した。
親見世役所 明治11年4月、西本町4丁目の旧里主所を親見世役所とした。同年12月、親見世役所内に、久米村役所、泊村役所をおき明治13年2月両役所を合併した。
那覇役所 明治13年6月、親見世役所を那覇役所とした。大門前の海岸通の埋立地に、西、東、泉崎、若狭、久茂地、久米、泊の順で、一棟の家屋を仕切って、各村は事務をとった。
那覇区役所 明治29年上之蔵1ノ4に那覇区役所をおく。その都市、勅令第19号により沖縄県区制を施行、27名の議員を選挙那覇区会を設置、自治体としての行政がはじまった。区役所は、島尻郡役所のなかにおかれ、口調は斉藤用之助島尻郡長が兼任した。明治41年、勅令第42号により、区制が大幅に改善され区長は官選から民選になった。 明治43年、那覇区会は、郡役所の建物と敷地を8800円で買収することを決議、島尻郡役所は若狭町に移転した。
庁舎を建設 大正8年、当間重鎮区長の時代に、庁舎を建設した。設計は京都大学教授武田伍一工学博士。
那覇市役所 大正10年5月20日、沖縄にも一般市制が施行され那覇市となり、都市行政がはじまった。
空襲で焼ける 昭和19年10月10日、米軍による大空襲で市庁舎は焼失した。
紅房に移転 市庁舎が焼けたので、真和志村古波蔵3061の「紅房」に移転した。
役所を分散 昭和19年11月戸籍課を牧志町2の4に、勧業課、衛生課を壷屋町2丁目に分散移転した。
民家を借りる 昭和20年2月真和志村安里の民家に移転。
市役所を解散 戦争が激しくなり、昭和20年3月23日、市役所を解散した。
市民の友 1965年9月15日 第181号(省略と抜粋)以前まとめたものを再掲しておきます。
1879年(明治12年) 沖縄県庁を設置。以降沖縄の行政の中心に。また、それまで那覇四町と呼ばれていた西・東・若狭・泉崎へ、新たに泊・久米・久茂地を編入。
1896(明治29)年 沖縄県区制の施行により、那覇区となる。
1896(明治29)年4月1日 郡制施行に伴い、島尻方(真和志間切・小禄間切(略)17間切7島
1908(明治41)年4月1日 島嶼町村制施行に伴い、島尻郡に糸満町(兼城村から分立)と真和志村・小禄村(略)1町22村2島
1921年(大正10年)5月20日 特別区制を廃止し、市制を施行して那覇市となる。
グダグダ(β) 那覇はどう変わったか(63年) 3那覇市のサイトにある歴代市長は市制施行(大正10年)以降のみですね...
http://www.city.naha.okinawa.jp/mayor/rekidai/index.htmPR