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ガーブ川周辺(新県道開通前)

「那覇の民俗編集ニュース」から高良嘉永さんの語る「新県道開通前のガーブ川周辺」を引用します。

新県道ができる前、現むつみ橋際に牧志町2丁目と松尾1丁目を結ぶ、幅1間くらいの道路があった。路面は石畳で両側に溝があり、道路両側の田や畠より1〜2尺高く、少々の雨では浸水しない農道があった。
この農道の両側は一面田や畠の湿地帯で、田にはイグサ、水いも、うんさいが植えられ、畠にはさつまいも、砂糖きびがあった。
昭和初年頃、現在の平和通り一帯を上岡作太郎氏が壷屋の地主から買い取り、湿地帯の田を深く掘り、鯉の養魚池とし、掘り下げた土で高くし、宅地・田園住宅地として貸家を十数軒建て、県庁官吏や警察官等に住宅として提供されていた。
昭和初年頃、ガーブー矼下流は県の指導と補助を受け、耕地整理組合を作ってガーブ川を○き湿地帯を改良した。
那覇の民俗編集ニュース (抜粋と編集)


1間が1.8メートルくらい、1尺は30センチくらいです。
上岡さんの名前が出てきましたがこの貸家が勉強堂屋敷と呼ばれていたところではないかと思われます。

参考:グダグダ(β) 上岡作太郎(勉強堂)
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唐船小堀(明治初期)

左画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄志 巻1/伊地知 貞馨/1877(明治10)」の那覇港図からで、切り出して画像加工してあります。
右図は昭和初期の地図を南北逆転したもの。

下図は「垣花村跡」の「本遺跡周辺の古地図(明治期)」を参考に海岸線を描き入れたものです。

下左図は嘉手納宗徳さん作成の「明治初年の久米大通りの図」、下右図は比較用に昭和初めの地図の同アングル。明治初年の久米大通りでの図を再掲。
明治初年の那覇

渡地が離れ小島であったことや思案橋などがわかるかと思います。
後の通堂1丁目あたりが唐船小堀と迎恩亭、2丁目が明治初期では離れ小島だった一帯になります。

参考:グダグダ(β) 通堂町(昭和4)
貴重資料デジタル書庫「沖縄志 巻1/伊地知 貞馨」
http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50045

今と昔(久茂地)

「那覇の民俗編集ニュース」から久茂地の「今と昔」を引用します。

ソニーの土地は旧家友寄家のもので、当山医院、その隣接地帯は徳田ヌ屋敷跡で琉銀本店裏を流れる曲がり角はアガリヌサチ、セーヌ神はスバル会社の通りで、50メートル先右側に市長官舎があった。今はホテルとレストラン、大典寺裏の洋裁学院から寺向いの駐車場は南風原家の土地で、3000坪あったといわれている。日銀の通りは病院小路、商業高校前には旧地主が住み、福永、呉屋、勢理客、新崎、桑江家と、あのチンマサーは58号線にとられて跡形もなく、潟原マチグヮーは若松通り北側にある子供遊園地がそれである。
松下レーンは沖の宮ウーチヌ寺跡、サントリー販売会社はウエヌミチヌ玉那覇酒造所跡、シッタイミチは渡久地万年筆ビルの横の通り、一銀の沖縄薬品裏の道、西口久茂地川の水道橋近くの那覇外科は美栄橋にあった大城酒造所があったところである。


70年代の証言ですから今ではわかりにくいとこがありますし、「那覇市旧跡歴史的地名地図」とは少しずれている所もあります。
チンマサー」はチンマーサーでおそらくイベガマのことですが那覇市旧跡歴史的地名地図では58号線そばではありますが道路にはなっていません。文中のソニーは電波堂ビル、松下レーンは今はない松山のボウリング場、シッタイミチは久茂地大通りのこと、水道橋は電波堂の前にある水道管のこと?
この記述は「戦前の久茂地民俗地図」と「那覇民俗地図」を見ないとピンとこないかもしれません。

久茂地川から海側は戦後の開放の際に区画整理が行われていて戦前を推定するのが難しいのですが、地主が商業高校前に移動していたのがわかったのは収穫でした。

久米周辺部の住人

続きのようなものということで那覇市史から。

この松尾山を中心にした区域がほぼ昔の久米村である。古老の話では、戦前にあった那覇尋常高等小学校(福木の山の学校)、県立第二高等女学校、松山小学校はもちろんのこと県立病院、聯隊区司令部、そして地続きのトーゴーマーチューまでが総てがクニンダマーチュー(久米村松尾山)と称され久米村の地所であたとのこと。明治36年の土地整理の際に課税の噂や、後日の管理の困難さなどの事情で内兼久山と共に久米村が所有権を放棄し、県有地に移ったとのことである。(中略)
久茂地は史料にもあるように、康熙6(1667)年紫金大夫金正春、城間親方の奏請で普門寺の地を久米村に属せしめたとのことで(後に久茂地と改める)、明治29年、沖縄県から出版された「沖縄旧慣地方制度」によると、行政区域及住民の項に「久米村中に久茂地あり一村落の姿をなせしにより明治12年9月久茂地役場を設置す」とあり、住民は「久米村-住民総て士にして総役以下吏員を勤むることを得而(以下略)」また「久米村人は元中年間支那より閩人三拾六姓を賜はり其の裔孫を称して久米村人と云ふ、皆平士にして町百姓なし、又同村内に那覇の平士住居する者あり、是れを島中人と云ひ、又同村久茂地は平士、町百姓の2種あり、島中人と同じく那覇親見世に属し権利義務も亦那覇四町と同じ」、各村庁衙の組織の項で久米村明倫堂の条に「但島中人及び久茂地は地所に関する件を除く外都[ママ]て那覇親見世の管理に属す」ともある。土地は久米村に、住人の那覇士と町百姓は那覇の親見世所管にと、廃藩後の久米は幾多の紆余曲折を経てきたもので(後略)
那覇市史資料編第2巻 中の7 p33、34(抜粋と編集)


久茂地が久米村であったこと、久米村(36姓は総て士族)にも那覇士族と平民が住んでいて島中人と呼ばれていたことなどがわかります。
県立図書館の貴重資料デジタル書庫に1671年の「久茂地村屋敷図」があります。

久茂地村屋敷図 [写]|貴重資料デジタル書庫・デジタルアーカイブ
http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=map&articleId=50017


左図は「久茂地村屋敷図」を加工したもの、右図は「那覇区全図(大4)」を加工したもので、久茂地・美栄橋町はあまり大きな変化はないようです。
参考:グダグダ(β) 久茂地町(昭和4)
参考:グダグダ(β) 美栄橋町(昭和4)

現在の那覇市久茂地地区周辺(=久茂地川の両岸地域)を描いたこの絵地図は、琉球王府の最高機関である評定所が管理していたとされるものです。あとで詳しくみるように、図中の書き入れから、この図は、1735年に作成された原図の1741年改訂版とみられています。
この絵地図を詳しくみると、各区画の面積、四方の長さ、住人名、出身村(どこから移転したか)などの情報が一軒、一軒、詳しく描かれています。
『久茂地村屋敷図』解説


読みが正確かどうかは自信がないですが... 右はイベガマで石が積んである様子が描かれています。

小路と家々 2/釣り(久茂地)

「那覇の民俗編集ニュース」の「小路と家々」の続きです。

隣りに泉藤太郎という靴屋兼風呂屋経営をしていた商人がいたが、頗る口が悪く、県人相手でありながら馬鹿者あつかいし、皆の憎まれ者であった。
近くに大和豆腐店があり、染物屋、計量器の久永があり、当間先生の提灯屋があり、ユミハイチョーチン、波の上祭りになると注文が多く猫の手も借りたいくらいの忙しさ。ニービチに使用するワタブーチョーチン、ミソライパパー[?]と共に、オイク饅頭の三良ウンチュー、たまに本土から来るチンドンヤと、今では笑いの昔話であろう。
アガリヌサチはよい子どもたちの遊び場で広く、対岸のコウガンと石投ギエー、小さい瓦のワレでトントンミー、4波くらい投げるのは上手で平均2波であった。
この付近は満潮になっても泥深で水泳に向かず、久茂地橋の下はナービヌスクで飛び込みに向きどこかのプール同様であった。中には泥を身に塗り黒ん坊になり、帰宅中の一高女の生徒にたわむれるものもいたが、怖いのは一中生であった。彼らに見つかるとドツかれるので橋口からジャブンと姿を隠した。
那覇の民俗編集ニュース(抜粋と編集)

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当時の久茂地川は満潮になるとクチミチャーとチクラが釣れ、休日ともなれば子ども大人を問わず橋には人の行列であった。たまにはンナトグワーが美栄橋近くまで泳ぎつき潮の減るのも知らず、アガリヌサチで子どもらに棒切れで打たれて捕えられたのを見たが1メートル余りのものであった。
那覇の民俗編集ニュース(抜粋と編集)


オイク饅頭は内地の人が始めたものだったかな?
ところどころわからない単語、読み間違いをしている可能性のある単語がありますのでご注意(引用元は手書きされています)。

小路と家々 1(久茂地)

那覇市史を製作している期間に発行されていた「那覇の民俗編集ニュース」から久茂地の「小路と家々」を引用します。図は「那覇民俗地図」「戦前の久茂地村民俗地図」を参考にして作成しました。

久茂地大通りから才の神に向うと、病院小路の角に勢理客、大田、山田、亀島家があり学校小路は旧藩時代からの士族の学校があり与儀、比嘉、冝保と大家が並び、更に大通りには名渡山、中里、宮古宿小路があり、宮古在番の宿があり、古屋門で200坪ばかりの土地に老朽化したカワラブキのいかめしい建物があった。
ウエヌヒラには南風原、我謝、伊差川、譜久原家と、その通りは右は病院小路に、左は才の神の寺グワァー前に市長宿舎があり、明治末期の区長、当間重慎氏の手により完成したものであった。
また大通りに出ると、小沢書店があり、沖縄での教科書の元売所で、新学期になると行列になった。
向いには西平小小路があり、ブリキ屋、家具、金細工、製粉、久茂地饅頭の本家があり、ハーモーウクサンは一人暮らしであったが駄菓子屋で、モチヤガラスのひょうたんに入った赤いニッキーは庶民の子供たちに人気があった。
下駄屋、菓子屋、掛絵、判○屋は軒を並べ寄留商人で福田のランプ屋があったが、長女は先生、次女は身体障害児であったが頭がよく店で客を相手に商談し、足でそろばんをはじきジンモーキヤーと噂され、持参金づけで沖縄ムコを探しているとのことであった。
那覇の民俗編集ニュース(抜粋と編集)


ウエヌヒラは下の図(沖縄志/伊地知貞馨)では「上ノ平」としてあり、上図での箇所とは異なっています。


才の神の福田ランプ屋の主人は福島県出身で立志伝中の人でした。
参考:グダグダ(β) 才の神(セーヌカン)

最初の図で饅頭?と書いてあるのは久茂地民俗地図で「山田 餅屋」と書かれています。
「名渡山」というのは名渡山愛順・愛擴の名渡山家だと思われます。

名渡山愛擴 - Wikipedia (画家、染織家 1932-2011)
名渡山愛順|作家紹介|美術館|沖縄県立博物館・美術館 (松下町出身、画家 1906-1970)

久茂地大通り


久茂地大通りは、孔子廟付近(セーヌカンとの交差路)から、チンマーサー(潟原と崇元寺への道の交差路)までの通りで、通りの西方(潟原へ向って左)を久茂地、東方(右)を譜嘉地と呼んでいた。
首里や地方からの通行が激しく、道はでこぼこができ、雨の日はぬかるんだので、シッタイミチと言われていた。
小澤書店や仲元履物店、小渡布団店もあったが、いったいに往還する馬車持ちや人力車曳きを相手のジューシーメーを売る一膳飯屋が多く、また関帝王・千手観音などを描いて売る掛軸屋、印版屋、ブリキ屋、あんもち屋、駄菓子屋など庶民の生活向きの小店が軒を並べた。久茂地は昔から職人の町で、掛軸屋、玩具製造、かすり結い、指物師、線香づくり、粉挽きなど、手先の器用な、家内工業の職人が多かった。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P298、299(抜粋と編集)


図は那覇民俗地図と「戦前の久茂地村民俗地図」を参考に作成しました。図中の小渡は(上記引用文の)那覇市史中の布団店かどうかは確認できていませんのでご注意。

仲元は昭和12年の「日報の沖縄人名録」にありました。
那覇市久茂地町1ノ48 電474
履物商
仲元喜恭

参考:グダグダ(β) 久茂地町(昭和4) (1ノ48は図と同じ位置)

国場組社史中の「昭和初期の那覇市街図」も同じ位置に「仲元履物店」があることになっています。

忠尽堂(忠藎堂)の由来

王家・王族だけが菩提寺を有していたのではなかった。尚真王の治世に浦添親方(*1)によって建立された広徳寺はその菩提寺であったし(*2)、久米村の清秦寺は蔡姓の廟寺であった。「蔡家家憲」(*3)によれば、蔡家の家廟はもともと忠藎堂と呼ばれていたが、喜友名親方(紫金大夫蔡堅)の代に円覚寺の末寺とされたもので、1732年に蔡姓一門の願い出によって再び家廟(忠藎堂)に改められたという。泉崎にあった潮音寺は同じく36姓の金姓の家廟であった。金姓の女性が建立したのであるが、「那覇由来記」(*4)によると、後に潮音寺を移して聖現寺が建てられたため、金姓の神主も聖現寺に安置されたという。
*1 月船忠公と号す
*2 『球陽』巻6・尚質王13年の条
*3 四本堂家礼ともいう
*4 『琉球国由来記」巻8
那覇市史資料編第2巻 中の7 P426(抜粋と編集)

※忠藎堂の「藎」の字は「荩」とも書くようです。忠尽堂と書いてある本があったのでこのブログでは「忠尽堂」を使っています。

円覚寺は臨済宗なので一時(?)は禅寺ということになりますね。
単に「堂」とも呼んだようです。

ドー /doo/(名詞)
寺の名。蔡氏の祖先をまつる寺。清泰寺。ロー roo(堂)、サイウジドー saiuzidoo(蔡氏堂) ともいい、久米村にあった。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51210


参考:グダグダ(β) 堂屋敷と堂小屋敷
参考:グダグダ(β) 久米町(昭和4) 2丁目106か?

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