忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

フェスティバルビル

画像は無断拝借。

右はhttp://www.pupa-hatena.com/b_log/site/2006/10/post_81.html、左は国建の記念誌pdfから切り出し。
探しても写真ないんですよね... 安藤忠雄(wikipedia)で完成当時(84年?)の建築雑誌を探さないと駄目かも。
上左画像pdfの掲載元は下記アドレスの第三章。結構面白いです。

株式会社国建|国建の半世紀
http://www.kuniken.co.jp/history/

国場幸房さんの自叙伝。

株式会社国建|沖縄ん建築紀伝
http://www.kuniken.co.jp/kenchikukiden/index.html


以下余談として。
フェスティバルビルは意欲的な建築だったようなんですが、テナントの営業内容と建物(建築家)の思想がかけ離れていたように思えます。自然の風や光を利用するというコンセプトは理解できるのですが、テナントは洋服屋さんばっかりだったので自然の風にまかせて商売というのもつらいような気がします。似たようなコンセプトで名護市庁舎がありますが市役所だと汗ばむくらいは許容範囲のはずなので、フェスティバルビルはやはり業態とのミスマッチではないかと思います(好きなんですけどね)。

名護市庁舎:http://www.city.nago.okinawa.jp/4/3557.html

自分の憶えている限りでは店舗はみんな締め切って空調をかけていましたし、雨の日などは吹き抜けから落ちてくる雨が中庭をぐしゃぐしゃに濡らし、同じ階の他の店に行くのにも軒下を歩かないと屋内なのに濡れる(笑)。台風後の屋上はグチャグチャに...
でもエスカレーターで上がってゆく時の光の柔らかさは気持ちがいいではあるんですよね。

【追記】フェスティバルビルについてまとめられたサイト(下記アドレス)があり、そこで1984(昭和59)年9月にオープンとの情報があったので新聞を確認したところ9月15日付の沖縄タイムスにオープン広告がありました。
また1996年11月に名称変更になったようです(下記サイト参照)。

http://www.zukeran.org/shin/d/2012/02/29/festival-buildings/
PR

1号線の高圧線撤去

1964(昭和39)年まで1号線(現58号)には高圧線の鉄塔がありました。

那覇まちのたね通信 | 放送/琉球放送社(KSAR・KABK・KSAR-TV)/琉球放送沖縄タイムスの建物の上を送電線が通っている
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2355

那覇まちのたね通信 | 那覇/都心を流れる高圧線
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1864

那覇まちのたね通信 | 58号線(旧1号線)/泊・前島付近の1号線(58号線)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1992


市民の友から撤去に関する記事を抜粋します。

市内の1号線に架設された高圧線は、那覇市の都市計画に支障をきたし、旧市内の復興を遅らせるものとして那覇市・市議会は再三その撤去を米民政府に要請してきたが9月30日撤去された。(略)1号線沿いは急速に市街化するものとみられている。
市民の友 1964年12月20日 第172号(抜粋と編集)


これは那覇市十大ニュースという記事からですが1964(昭和39)年9月30日という撤去日時がわかりました。この高圧線は識名墓地を通るように変更されています。

市民集会所(美栄橋)

左写真は1958年7月に美栄橋に建設された市民集会所(無断借用失礼)で右図はゼンリン地図69年版を参考に作成。場所は現国場ビル向いの三角公園内でしたが97年に取り壊されたようです。

なにやら跡地には碑がある模様。

市民集会所は、沖縄が米軍統治下にあるとき、祖国日本の勤労者組織である
日本労働組合総評議会から、那覇市に贈られた資材で建設された。

http://moritaxi.ti-da.net/e3047877.html


下左写真はまちのたね通信の写真から切り抜いたものです。ゼンリン地図69年版での名称は、琉球セメント株式会社(A)、日高ミエ子・古賀善次・大城善松(B)、球陽館(C)、市民集会所(D)

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1671

こちらの写真は市民集会所の全景が写っていました。球陽館後方から市民集会所を望むアングルです。

那覇まちのたね通信 | 球陽館
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3407

【改訂】以前Bの日高は日高栄次郎の身内という妄想をもとに推測していましたが、「日報の沖縄人名録(昭和12年)」を見ていたら「美栄橋町1ノ46/製材業 日高開蔵」という名がありました。
姓からして寄留商人ではあるんですが戦前の古賀商会と安易に結びつけたのは失敗でした...
以前のは折り畳んでおきます。

希望ヶ丘公園の不明土地記事

地主は市都計画課へ
希望が丘公園の土地
那覇市では、1964年度の公園事業として希望が丘公園を整備することとなっています。ところが希望が丘公園用地内に持ち主がわからない土地と、持ち主がわかっていても、その人たちの住所がわからず、公園整備をすすめる上に支障をきたしていますので、つぎに該当する方は、都市計画課緑地係までお知らせ下さい。
▲所有者不明の土地
牧志町2丁目(番地略/11箇所)--以上墓地、(番地略/5箇所)--以上原野
▲所有者の住所不明の土地
▽牧志町2丁目131 畑-佐久川K(後略)
市民の友 1963年12月25日 第160号(抜粋と編集)


略してある部分の内訳はこうなっています。

墓/嘉数 5、高良 6、その他16
原野/金城、宜保
畑/佐久川、国吉、高良
宅地/上原 2、与座、玉城、赤嶺、田畑


宅地を除いた部分で出てくる姓は以下。

佐久川、高良、嘉数、比嘉、国吉、金城、島袋、名城、小橋川、高江洲、宜保、新里、安次嶺、山田、山口、城間、喜屋武

「戦前の昭和初期牧志町民俗地図」に見える姓は以下。

高良、嘉数、幸地、佐久本、名里(屋号?)、武富、玉井、比嘉、友寄、宮城、幸地、大城、上門(屋号?)、瑞ケ覧、仲村、具志堅、羽地(以上新県道から前島側/中心部はほとんど高良と嘉数)
高良、嘉数、ヨギ、上門(屋号?)、東外間(屋号?)、城間(新県道から壷屋側/現てんぶす周辺)
宮城、奥原、具志堅、小浜、村吉(前島島小)

「壷屋町の民俗地図」に見える姓は以下(書いていないものもあります)。

仲本、新垣、常賀、平田、友寄、大嶺、辺野喜、仲本、儀間、島袋、西仲(屋号?)、安里、川門(屋号?)、兼島、花城、宜保、玉那覇、富名腰、宮里、喜納、知念、安次嶺、高江洲

希望ヶ丘公園は北に牧志、南に壺屋なのでこの周辺の人間の墓地があったと思われます。一ツ松尾・二ツ松尾で取り上げた高良嘉永さんの自伝では、牧志に古くから住む高良家祖先累代の墓は現希望ヶ丘公園にあったと書かれています。
また市民の友の記事内には所有者住所不明地の所有者氏名がフルネームで出ているのですが、この中には高良嘉永、高良郎栄、高良盛一(なみさと)などの名前が見えます。

参考:グダグダ(β) 島小(前島)
参考:グダグダ(β) 牧志のムートゥ(2)
参考:グダグダ(β) 牧志のムートゥ

一ツ松尾・二ツ松尾


図中の左は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を基にしたもの、右は那覇民俗地図を参考にして作ったものです。
※「那覇市旧跡・歴史的地名地図」は「ジャーグヮー墓地」となっています。

この図は旧那覇の歴史・民俗地図での画像をトレースして、門中墓地(A)、二ツ松尾(B)、一ツ松尾(C)を書入れたもの。

この写真は壺屋(1945)で取り上げた「那覇市壺屋地区における石敢當と集落形態」に掲載されている1945年の写真をもとに、ひめゆり通りからグランドオリオン前を経由して国際通りに至る道と国際通り(当時新県道)と上の図で取り上げた箇所をポインタで示したものです。戦前の希望ヶ丘一帯がどうなっていたのかはいまのところわかりませんが写真では民家等はないように見えます。地形的な制限(崖)や墓地の存在などから想像すれば寂しい場所だったんではないでしょうか。
牧志生まれの高良嘉永さんの自伝から引用します。

小禄から牧志に移住して来たのは、根屋(ニーヤ)の越来の高良、神歌(ウムイ)の嘉数、大根(ウーニ)の嘉数、山当(ヤマタイ)の比嘉、東水張(アガリミジハイ)の高良、八幡の高良の6門中である。
我家の大元屋(ウフムートゥヤー)はウーニの嘉数で、現在高校教諭のKSが当主を務める。中元家(ナカムートゥヤー)は、目下TSで、中元家から分かれて私は6代目にあたる。
p2
戦前まで高良家祖先累代の墓は、牧志町1丁目135番の当時俗称ジョー小墓地(現希望ヶ丘公園)にあった。小高い丘に4、50基の墓があり、老松が点在していた。高良家の墓地は112坪で、墓の入口近くの両横に幹周りが4メートルも在る老松が高くそびえていた。
先祖に恥じない自慢の墓であったが、昭和19年11月下旬、皇軍が無断で、我が家の墓から厨子甕を取り出し、墓庭の澄みに片付けてあることを聞かされた。早速皇軍にかけ合ったところ、対戦車砲を入れるのに良い陣地だと言われた。当時、皇軍は敵上陸に備えて陣地構築に懸命であり、一帯は陣地として使用され、墓と墓とは横穴式に通路をつけ、墓から竪穴を掘って2、300人は収容できる防空避難壕に通じていた。
p106,107
高良嘉永人生記 働きざかり・花ざかり (抜粋と編集)


希望ヶ丘公園一帯のジョーグヮー墓地は牧志の門中墓地であったようです。

参考:グダグダ(β) 牧志のムートゥ(2)
参考:グダグダ(β) 牧志のムートゥ

改修以前の国際通りと紅房

改修以前の国際通りの続きのようなもんです。
図を再掲。
家政女学校
上図は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を参考に作りましたが、50年代の改修以前はこの道筋のままであったようです。
下左写真は米軍撮影、下右図は写真から読み取れる道筋。
美栄橋町

以前取り上げた「沖縄主要地・主要商工年鑑」の51年版(第九図表)と52年版(第一図)での紅房。

紅房社史からこの位置にあったころの証言を取り上げます。

岡本[亜紀] 話は戻るんですけど、国際通り時代、製作工場と店舗がありましたよね、たしか。
山城[正成] 国際通りにあったときには、工場の敷地は非常に広かったですよ。建物がトタン屋根だけれども、4棟くらいありましてね。その周辺に、従業員の社宅があったんですよ。今の「わしたショップ」から国際通りを横切って「ざまみ紙店」のうらあたりまで紅房の敷地だったんです。
親泊[一郎] それは戦前も敷地だったんですか?
山城 いや、戦後に。その後国際通りが拡張するというので、今まで紅房の前にあった道が紅房の敷地の真ん中になってきた。真っ直ぐにしたために。だから「おまえら移れ」と、その時の市長が当間重民さん。そういうことで若狭町に移された。
紅房社史 p58(抜粋と編集)


ということで現在の道路がある場所に紅房があったのは間違いないようです。

牧志ウガン野外舞台

1957(昭和32)年の市民の友から引用します。

スマートな野外舞台
牧志角力場に完成

那覇市ではさきに建築中であった牧志ウガンの角力場内に鉄筋コンクリートのスマートな野外舞台が7月22日完成したので、市民の集会、リクレーションに開放しているが、教育布令で校舎の使用が事実上困難になった現在、那覇市に於ける設備の整った唯一の公設娯楽及び集会場として11万市民から大きく期待されている。一方都計課では同角力場を含む周辺1369坪の“牧志公園”を計画、子供の遊び場も設ける予定なので、市民にとって今後盛んに利用されることになろう。
野外舞台は準備部屋も含めて36坪、平良組が445000円で完成した。敷地369坪の中央に角力場、周囲に3000名収容の円形スタンドが設けられており、つめれば5000人は収容できるといわれている。社会課では同角力場の使用希望者は申し出るよう望んでいる。
市民の友 1957年8月1日 第78号 (抜粋と引用)


あれは野外舞台だったのか...

関連:グダグダ(β) 牧志ウガン角力場

堂屋敷と堂小屋敷

堂屋敷と堂小屋敷の違いをあいまいにしていた記事と現東寿寺跡を過去の位置と同一であるとしていた記事を修正しました。
きっかけは下記ブログを読んでいて思い出したからなんですが、ブログ主の方は現在の東寿寺跡の整備に関わられているようです。

東寿寺について その2:グランパの島からハイサイ!
http://uimaaru.ti-da.net/e3711102.html



図は那覇区全図(大4)を加工したものです。これに旧那覇の歴史・民俗地図に書かれている「堂の山 (a)」「忠尽堂/忠藎堂 (b)」「堂屋敷 (c)」「堂小屋敷 (d)」を書き入れました。寺の記号は上が「東寿寺(堂小)」で下が「東禅寺」です。
唐栄久米村と天妃宮明治初年の那覇
割と早い時期の那覇の図なんですが、孔子廟裏手の内兼久山と松尾山の間にある敷地の小さな一帯が堂小屋敷だと思われます。
58号線側(孔子廟側)からすると東禅寺、堂小屋敷、東寿寺、堂屋敷、忠尽堂、堂の山になっています。
昭和初期久米の景観推定図昭和初期の久米村

まとまりがありませんが過去記事フォロー(言い訳とも言う)です。

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]