「なはわらび行状記/船越義彰」の「三輪車」と題された箇所から。
善興寺坂--そこはいまのどのへんだろう。郵政管理事務所と、天妃校を結ぶ線のあたりに坂があった。天妃校からおりると左手に一味亭という大和料理屋、右手が善興堂病院、少しおりて右が龍界寺小路、千原繁子先生の病院と川田のクスリ屋があった。そして龍界寺小路をはさんで市公会堂、公会堂と向かい合ったところ、つまり善興寺坂からおりてきた左手に、戦後米民政府が土地事務所として使用していた、いまの郵政管理事務所の古い建物(戦前逓信といっていた建物)があった。
(略)
善興寺坂の三輪車疾走は主としてハジメーと一緒だったが、同級生の仲元君や金城君とも行ったような気がする。(略)ところでハジメーだが、戦後一度も会わなかったのでひょっとしたら戦死したのではないかと思っていた。それが、つい先日ハジメーの妹のアイちゃんと石川で会った。四十年ぶりにである。そしてアイちゃんの口からハジメーが沖縄戦で戦死したが、戦死の場所も不明であることを聞かされた。
なはわらび行状記 p23、24ハジメー... 共に那覇に産まれ育ち東町近辺を走り回っていた少年達の明暗を分けたものはいったいなんだったんでしょうか。
図の中でオレンジで示されているのが善興寺坂、紫が龍界寺小路です(出典:那覇民俗地図、琉球の都市と村落/高橋 誠一)。
那覇民俗地図では龍界寺小路はユーゲースージと書かれていますが、リュウカイジスージがユーゲースージになるのはナーファンチュのだらだらした喋り方を考えれば納得できます。ナーファンチュに
「リュウ・カイ・ジ・スージ」なんてハキハキした喋りを期待するのは無理で、ルーカイジスージになってユーゲースージに変化してしまったんでしょう(笑)。
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