堂小屋敷とおもわれる一帯と内兼久です。
東寿寺(堂小)と
久米村市場でとりあげたんですが「琉球の都市と村落」の図を参考にもうすこし詳しく書いてみました。
堂小より嘆願(那覇)で、大正2年(1913)に燃えやすい建造物を市街地に建造する事を禁じた新規制に対して資力がないので対応できない堂小屋敷住民が従来通りに扱ってもらえるよう嘆願したのをとりあげました。
具体的には瓦葺きにする資力がないということです。
>これに対し区内久米堂小屋敷及び格子目に居住せる貧民等「堂小屋敷と格子目」に居住せる「貧民」と呼ばれています。
「琉球の都市と村落」では図の道路のほか敷地も書かれています。今回とりあげた図の範囲では堂小周辺だけ敷地の区割りが細かく、他の敷地と比べると半分くらいしかありません。最も広い屋敷と比べると十分の一程度です。
ただし大通り沿いや東町あたりは堂小屋敷あたりとかわらない敷地面積です。
※図は参考程度の精度です那覇の観光歴史ガイド本などでは青年会館そばの公園が内兼久跡として紹介されています。
面白いのは水路になっていた箇所が公園より若狭町側では現在の道筋と微妙に重なっています。埋立などでできた土地は基本的に公有地ですから換地や公売など出されない限り区画に影響します。ここもそうなのかなとも思いますが我ながら考え過ぎという気もします。
内兼久は高台だったはずですが整地によって跡形もありません。
松尾山とそれに連なる内兼久山は、那覇尋常高等小学校(沖縄テレビ)、そして裁判所(郵便局)、孔子廟(商工会議所)、そして大典寺のあたりから潟原交番前に連なる丘陵地帯で、そこには松山小学校、県立二高女、県立病院、知事公舎、その他県庁のお偉方の官舎があり、松風の音もさわやかないうなれば那覇の軽井沢的場所であった。
なはわらび行状記 p50、51(省略と編集)現在は「山」どころか丘ですらないですね。
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