古波蔵にあった旭窯業所についての検索結果をまとめておきます。
関連:
旭窯業所関連:
坂元栄之丞熊本県天草の丸尾焼のページ。
金澤武雄は、明治24年(1891)丸尾焼2代久四郎の四男として生まれる。明治4
3年佐賀県立有田工業学校窯業科を卒業後、農商務省工業試験所に勤務し試験研究に従事する。
昭和2年には、沖縄県商工技師に任じられ、内務部勧業課に勤務。昭和4年陶管や泡盛壺を製造する沖縄旭窯業株式会社創設に主任技師として尽力。沖縄時代に浜田庄司と師弟関係にあり、浜田庄司を育てる。
昭和7年(1932)2代久四郎が病没したため、天草に帰り3代目として家業を継ぐことになる。
http://www.maruoyaki.com/0621/history/history_maruo.html『沖縄大百科事典 上 ア~ク』(沖縄タイムス社、1983年)
p472 「沖縄工業指導所」の項。伝統産業の振興機関。1927年(昭和2)県庁内発足、1932年初代所長として安谷屋正量が赴任、1944年10・10空襲後終止符を打った、とある。
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000085308昭和2年に設立された「沖縄工業指導所」に金澤武雄が招かれたこと、昭和4年に「沖縄旭窯業株式会社創設に主任技師」としていたことがわかります。
公的機関の技師がただの民間の会社にいくというのは考えにくく、金澤武雄の今までの職歴も公的な機関が主なようですから、旭窯業は何らかの意図を持って設立された会社ではないかと想像します。
昭和4年12月本県陶業の振興を計画し旭窯業株式会社を設立、推されて初代専務取締役に就任
グダグダ 坂元栄之丞たとえば「本県陶業の振興を計画し」というのが「泡盛の輸出の為の容器生産」なども含んでいたと考えれば行政がからむことも自然だと思われます(妄想ですが)。このへんは県史など確認すればあっさりわかるかもしれません。
荒焼はまったく別の要因でその伝統技法の崩壊の危機に直面したのであった。
それは明治37、8年の日露戦争を前後する頃の景気の到来で、壷屋では実に30余基の荒焼窯が築かれ、その景気は天をつく勢いだったといいつたえられている。製品は主として軍向けに移出された泡盛の容器としての酒甕類で、一窯実に1000個単位で焼いたというから如何に大量に生産されていたかがわかるというものである。このような大量生産がもたらしたものは、いうまでもなく粗製濫造からくる賃の低下であった。(略)県側も、このように衰退傾向が著しくなった壷屋の陶器のみならず、漆器、織物、紅型等の工芸界の状況にかんがみ、昭和二年「沖縄県工業指導所」(初代所長=安谷屋正量)を開設し、技術指導、新製品開発、業界組織の改善、強化、経営の合理化などにのり出したのである。ようやくその成果がみえはじめた頃、沖縄戦に突入し、その活動は中途で停止のやむなきに至った。しかし、その理念は、はからずも戦後復活されたのであった。
近・現代沖縄の焼物(抜粋と編集)
http://www.zyyms.net/yakimonokingendai.htm引用したサイトの
「近・現代沖縄の焼物」は明治に入って変化してゆく焼き物の背景なども含めた記述になっています。粗製濫造のことにも触れていますが、泡盛関係側の記述にも容器の品質(漏れなど)の問題が書かれてあります。
まとまりはありませんが旭窯業検索関連結果まとめということで。
---
余談ですが当間重剛の弟である重国(次男)は「京都府立の陶器学校に入学、その時代に河合寛次郎、濱田庄司などと知合い、沖縄に連れて来ている」と当間重剛回想録にあります。当間重国は明治31(1898)生まれですから大正ごろの話でしょうか。
PR