船越義彰さんの小説に「戦争・辻・若者たち」というものがありますが、大正末年生まれで辻で育てられた船越さんの周囲の人間を半分だけモデルにしたものです。その表紙裏に辻一帯の地図があり、その地図は那覇市史に掲載されている地図より範囲が少しだけ広いです。
船越さんの図では波の上通りの護国寺の向かいの天理教の隣は「沖縄ホテル」となっています。志良堂ウタキ(現松の下)の隣が天理教です。
那覇民俗地図では天理教の隣は「見晴亭」となっていますのでオーナーが変わって名前も変えた可能性もありますがこの辺はよくわかりません。小説では32軍首脳が宴会をしていたといういう描写で登場します。
戦後の大道にも沖縄ホテルというホテルがあり、首里から坂を下りて来て大道の繁華街に至る手前の右側にあります。今となっては少し古いかもしれませんがとても良いホテルだと思います。
このホテルのオーナーが宮里定三さんでかりゆしウェアを考案した人として有名です。
波の上の沖縄ホテルは戦前初めてのホテルで、戦後最初のホテルも1951年に設立された沖縄ホテルです。
県ホテル旅館環境衛生同業組合理事長や県観光コンベンションビューロー顧問など務め県観光産業の育成・発展に寄与した宮里定三氏が 1999年3月4日那覇市内の病院で死去した、86歳だった。名護市出身。
宮里氏は1941年沖縄ホテルを設立し総支配人になり、51年社長、94年から会長に就任していた。那覇市観光ホテル旅館事業協同組合長を務めたあと、 74年5月の県ホテル旅館環境衛生同業組合発足と同時に理事長に就任した。70年9月から88年5月までは県観光連盟会長も務めた。
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