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鍛冶屋のようす

「沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭」から明治41年那覇生まれの桃原さんのインタビューから抜粋します。

桃原さんは甲辰小学校6年を終了して13歳の時に宮平カンジヤーに弟子奉公した。三年間の奉公期間であった。しかし、幼少の頃からフイゴ押しや、横座、メーウッチャをしていた。兄が宮平鍛冶屋に働いていたので頼っていった。

19歳に達したとき、山田有幹氏が代表となって20〜30人の鍛冶工が那覇職工組合を結成した。ある工場に勤めていたが給料を支給しなかったのでやめたこともある。別の工場に就職することについて親方連中から文句や邪魔が入らないように強く申し入れておいた。幸いニシンジョの宮平鉄工所に採用され給料も倍額一円が支給された。
宮平鉄工所では工具の修理が中心であった。安謝のブータノール工場にも一年いて、建築用の金物を制作した。4、5人の鍛冶工がこの工場に雇われていた。
昭和19年、小禄飛行場で三人の鍛冶屋の責任者となって軍の仕事を請け負ったこともある。

戦前那覇には大きな鍛冶屋(鉄工所)としては宮平とかじ原があった。小さい鍛冶屋は久茂地のミンダカリに20〜30軒が立ち並んでいた。全鍛冶屋とも農具を作っていた。桃原さんが働いていた宮平鍛冶屋はニシンジョーにあって風呂の煙突やボイラーを作っていたのである。ここに20人の職人がいて桃原さんは職工長をしていた。
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭 p127〜131から抜粋
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