「沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭」を参考にすると、下働き(ふいご・鎚打ち)は妻子や弟子にやらせ、弟子は無給で最低3年くらいはふいご(フーキ)、鎚打ち(メーウチ/前打ち)をやり10年程もかかって一人前(立身小)とされたようです。また前打ち工には日当で働く専門の人もいたそうです。
脚の悪い人の就職先でもあったようでインタビューに取り上げられた人のうちにも何人かそういう人がいます。
戦中は徴用され、竹槍の先、刀作り・研ぎ、石斧、荷馬車の車輪、爆弾、手榴弾、カブトなど様々なものを作り、戦後は米軍の下で農機具等の復旧に必要なものを生産していたようです。
他に金物を扱う職業は蹄鉄師や鋳掛屋(ナービナクー)がいたようですが専門が違うためこれらの人達は重ならないようです。
「カンジャーには二種類あってミンダカリ系が農具で首里系は刃物が専門であった」(p123)
「久茂地通りに「ハンジャー・スージ」といって16軒の鍛冶屋が通りの両脇に立ち並んでいた」(p200)
「那覇には田舎から乗り入れて来る馬車の収容所が二ヶ所あった。中頭は潟原(現在の若松町)、島尻は壺川で、蹄鉄師も那覇にいた」(p227)
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