那覇の気質を表す有名なことわざがありますが、方言データベースの「ナーハイバイ」の項目から引用します。
スインチョー スリージュリー、
ナーファンチョー ナーハイバイ、
クニンダンチョー クンクルバーセー、
トゥマインチョー トゥメーイドゥメーイ。
首里の人はうち揃って、
那覇の人はばらばらで、
久米村の人は互いに争って、
泊の人は互いに捜し合う
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN40057実はこれよくわからなかったんですが「沖縄県史物語」に背景の説明があったので紹介します。
沖縄の商業、起業はほとんど寄留商人によって占められていたのは仕方のないことで、那覇の士族などは、まだ事業に慣れていませんでした。バックとなる資本もありませんでした。そこで廃藩後の沖縄の事業は、首里士族の活動にまたなければならないことになります。
(略)
そうして首里士族は、尚泰の四男尚順男爵や高嶺朝教らを中心にして、明治30(1897)年に沖縄銀行を設立し、寄留商人がわの第百四十七銀行那覇支店と対抗していくようになります。尚家の事業に資金援助をするために設立したものであった、と見てもよいでしょう。
明治26(1893)年に創刊された琉球新報も、尚順を中心とした首里士族によって発刊されたものでした。このような首里士族の活動に対して、那覇士族は寄留商人のどちらかについて、那覇としてのかたまり結束が出来ていませんでした。そこで有名なことわざが生まれ出たのです。
沖縄県史物語 P50、51(省略と編集)割と新しいことわざだという説でした。
那覇が寄り合い所帯でまとまりがないからという説もあります。
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