わずかな言及ですが書き留めておきます。
戦前の銘苅地域は、戸数130戸、人口610人、総面積234462坪であった。また小字別の土地利用については別表のとおりである。王国時代は公租の関係から米作が基本であったが、近代(明治期)以降、換金作物としてサトウキビ栽培が主流となり、銘苅地域でも稲作から畑作への転用が進められたと思われる。戦前同地域(小字多和田)に居住していた人の話では、稲作は大湾ガーラ一帯のわずかな場所で行われていたとのことである、宅地は銘苅・宇久増・港川・名護松尾の各小字に偏っており、いわゆる「散村」の形態が見られる。港川・名護松尾の2小字は他地域よりも墓敷地が多いところである。
銘苅古墓群 (2007年) p113(抜粋と編集)
散村と集村ですが昔からある村はだいたい集村になっています。左が上間、右が与儀。


銘苅はこのような碁盤状の集落はなく、道沿いに家が並んでいるような感じです(那覇新都心物語の「旧銘苅民俗地図」参照)。
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