安謝義理地原の海端には糸満人の小さな集落があったようです。
昭和初期に入ると崎樋川の北方、安謝ギリチ原付近に糸満漁夫が崎樋川の海にあったイナン干瀬の漁場を狙って3、4軒の集落が形成され「糸満屋敷」と呼ばれていた。
天久誌 p91安謝川河口寄りの海岸近くには、糸満あたりの漁師が4、5軒の家を建てて(糸満屋)住んでいた。夏場には、アギヤーと呼ばれる漁師たちが30〜40人ほどやってきて、安謝集落にウミガネー(海の使用料)を支払い漁をしていた。期間中、彼らはここに家を借りて滞在した。捕って来た魚は当地でも売るので、売る人、飼う人で地域は賑わった。また、家賃は現金ではなくとってきた魚で物納されていた。家主は、その魚を売りさばき現金に換えたという。
安謝誌 p30義理地原は安謝の端の方。ちょうど図の「A」の字がある辺りが糸満屋敷だったようです。
埋立以前は左側は海です。

米軍撮影の浦添から見た安謝。
写真の右側辺りに住んでいたんでしょう。

イナン干瀬は伊奈武瀬と表記されている礁です。現在は埋め立てられています。

糸満漁夫と垣花漁夫の採る魚種の違いなども面白いんですが別の機会に。
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