那覇新都心物語から記述を拾います。
当時の沖縄三大闘牛場のひとつが天久にあり、闘牛を行う時は周辺に階段式の観覧席を設け、多くの人で賑わった。 p19

「那覇市史」によれば銘苅集落は明治42(1909)年に安謝から分立して独立行政をつくり、多和田原、銘苅原、名護松尾原の三つの小字の結合体であった。
三つの小字の中でも名護松尾原の人口が最も多く、往時の戸数が60〜70戸で全戸が農業に従事していた。各戸2000坪以上の畑を持ち、一面にサトウキビが植えられ、のどかな風景が広がっていた。 p21
天久は旧集落から現在の国道58号の西側の天久潮満原と寄宮の農事試験場跡地とにわかれて移動させられた。上之屋の住民も大半は寄宮の農事試験場跡地に移動した。 p27
昭和25年から昭和27年にかけて、名護松尾原の住民の多くが松川後原(現在の松川、田崎病院周辺)に移動し、その他の住民は真嘉比、中部などへ移動していった。 p27
[再開発の]工事を始めることにより、当地区に生息していたハブが周辺の人家へ逃げ出すことが懸念された。そこで、事業地区界全域にハブ拡散防止フェンスおよび捕獲器を設置するなどの対策を講じた。200匹以上のハブが捕獲され血清などをを作るのに利用された。 p6028ページには異動先の図があるのですが、農事試験場のあたりは<寄宮銘苅区、看護学校寮>と二ヶ所示されています。知事公舎周辺だけではなく与儀に近い辺りにも移り住んだのかもしれません。
最後のハブ200匹というのは当時の天久開放地がいかに自然に還っていたかの証明ですね。食物連鎖の頂点に近い位置にいたはずのハブを支える生物の数は相当のものだったはずです。
しかし自分はハブのことを知らないで結構出入りしてましたねぇ...
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