上間誌から境界決定の伝承についてです。左は南風原と那覇の境界付近、右は上間矢旗原です。

琉球王府時代末期の頃、上間と津嘉山は両村(字)の境界のことで紛争となった。上間は矢萩毛(現南風原高校)の山頂から伸びる先を主張し、津嘉山はそこからさらに200メートルほど南側の水田地帯を東西に流れる小川、クガーラ川を境界にするよう主張した。今では考えられないことであるが互いに自村(字)の土地が少なくなることを望んだのである。双方譲らずついに石合戦となった。
石合戦が行われたのは矢萩毛のふもと、今の南風原高校の正門付近であった。当時は石畳道の小路が一日橋と津嘉山を結んで、この付近は小高くなって石畳道を登るという意味の石登り(イシヌブイ)と名称していた所である。この辺は石がなかったので女性は竹籠で石を運んだ。この話を語った老婆も石運びしたという。
石運びについては津嘉山にも同様の伝承があった。津嘉山出身の筆者の母によれば、母の祖母(1860年生まれ)も石合戦の石運びをしたという。津嘉山は平地で石が少なく、瓶も割って石代わりにしたという。
(略)上間側が勝利したことによって両村の境界は上間の主張する矢萩毛の頂上から尾根伝いに下りて、西側の国場川の流れに沿って定まった。石合戦に勝って境界を上間側に寄せ、村の土地を少なくして公租高を少なくしたという。これが現在の境界である。
はたして石合戦によって村の境界が決まるものか寡聞にして知らないが、一つの伝承として記録しておく。ただ、地割りについては王府は全く干渉せず村(字)の自由に任せたから右の話は本当かもしれない。
上間誌 p80、81ほんとかどうかはわかりませんが面白い話ではあります。
矢旗原にあった矢萩毛(ヤファジモウ)は国場誌などで見る事が出来たかと記憶していますが小高い丘で現在の地形からは想像がつきません。あと矢旗(ヤハタ)と矢萩(ヤファジ)は似た音ですが語源は同じなんでしょうか。
参考:
山川原・淵下原・東原・矢旗原(上間)参考:
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