七つ墓の近くにあった三坂ナービヤーの人です。

那覇民俗地図では「ミサカ鍋屋」、字史などでも三坂ナービヤーと呼ばれているのですが、三坂鉄工所などと書かれているものも目にします。
明治末期の工場で引用した明治43年の工場名では「
三坂鋳物工場/牧志/三坂市兵衛/明治34.3/砂糖車/5人」となっていて、当時の新聞広告で
川畑黙志の工場とともに三坂の砂糖車の広告もあります。
明治末期の工場主は三坂市兵衛となっていますが、昭和12年の人事録では三坂栄造の名だけがありますので世代交代したと思われます。
鉄工業(三坂鉄工所経営)
三坂栄造
那覇市前島町1ノ1
本県鉄工業界に最も古い暖簾を有し、父祖伝来の家業に百尺竿頭更に一歩を進めて隆々たる声望あるを三坂鉄工所主三坂栄造君とす。君は明治30年を以て鹿児島県姶良郡加治木町に生る。少年時代より那覇市に育ち大正8年沖縄県立第一中学校を経て大阪専修高等工業学校に入り、同13年卒業後暫く満鉄に勤務せしが、大正14年退社、家業を継承して今日に及ぶ。当家は先代の頃より鉄工業を以て家業とし、本県同業の元祖にして君又家業を継いで良く之をまもり今日の隆盛を見るに至れり。殊に君は近代科学の洗礼を受けただけに発明心に富み、昭和8年4月及同年10月の2回に亘り三坂式甘藷圧搾機を考案して新案特許を獲得し、本県製糖界への貢献少なからず。
沖縄県人事録/高嶺朝光編 (抜粋と引用)泊前島誌には昭和32(1957)年当時の地主名簿があり三坂栄造さんの名もあります。
本籍 那覇市前島1の2/調査時の住所 那覇市1区23組/坪数 101,00/名義人 三坂栄造
泊前島誌 p437 (表より抜粋)昭和26年6月に発行された「最新那覇市地図」を見ると1区23組は今の橋の側辺りか道路だと思われます。「最新那覇市地図」では料亭那覇の後方になっていますので戦後も戦前と同じ場所に住んでいたんでしょう。
参考:
グダグダ(β) 戦後の那覇の区参考:
グダグダ(β) 料亭那覇の旧位置PR