沖縄の地でバレエ・洋舞の研究所が開かれたのは戦前である。来沖した石井漠舞踊団公演に魅せられた南條ミヨシ(安村ヨシ)は、周囲の反対を押し切って名古屋の南條宏(本名・高江洲康宏)に内弟子としてバレエを三年間師事した。帰省後は1937年(昭和12)年から幼稚園や首里の自宅で指導にあたったが、戦争が近づいてくると「バレエ」という言葉を使うことも禁止され、逆に軍歌に振り付けをするようになったという。
1950(昭和25)年には大道の婦連会館の隣に、1958年には久茂地に研究所を開き、57年には首里とあわせて三つの研究所の合同の発表会を行うまでになった。
1962年の8月には「南條舞踊賞」が南條みよしに贈られ、那覇劇場で合同発表会を開き、南條ゆり子、南條喜久子、富原千智、長崎佐世、高良幸子ら、現在の沖縄のバレエ・洋舞界を牽引するダンサー・指導者たちが一堂に会した。
なは・女のあしあと(戦後編) p395〜397(抜粋引用編集)現在のバレエ(とフラメンコ)の関係者は南條みよしさんのお弟子さんが多いということですね。
当初「南条」と表記していたのを「南條」に訂正したのですが両方の表記があるようです。どちらが正しいのかというのがわかりませんのでその旨ご了承下さい。
【追記】「私の戦後史 第8集」に「南条みよし」さんの自伝があり、そこからの情報を追記します。
ここからは冒頭の「なは・女のあしあと」につながります。
1915(大正4)年、泉崎生、父平安座朝輔(警察官)、母マカト、一男三女の長女。祖父母が甲辰小の門のとなりで文房具屋をしており、そこで生まれる。
警察官の父のもと毎年転校するような暮らしを送る。1933(昭和8)年二高女卒業、西本町の島田医院の薬局に勤め看護婦の勉強をしていたが、旭館で行われた石井漠公演に魅せられ勤務後一人で踊りの練習を始める。新聞記事で南条君子の写真を見て県出身ということを知り内弟子希望の手紙を送る。余談として改姓のことなど。
しばらくして私の名前の「平安座というのは、読みづらく、朝鮮の名前に似ているから変えましょう」ということになり、“平山”に変わりました。
私の戦後史 第8集 p256PR