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山里永昌

大正5年の沖縄県人事録から。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からで、切り出して画像加工してあります。
山里永昌
県農工銀行書記
沖縄県士族
那覇区上之蔵町2ノ26
社会凡百の職中最も華々しきは実業界の闘志にして、就中金融経済の事務を鞅掌せる銀行員の如く高尚なるは他に少し。由来沖縄に於て斯界に人を俗に白足袋連と称せり、而して交際場裡の華として重きを為されつつあり。君は多年を斯界に貢献して声望甚だ高し、適材を以て推称すべき一人格たらずんばあらず。
明治10年を以て那覇区上之蔵に生る。故父永錫氏は○に那覇区会議員として貢献少からず、又県農工銀行創立の際委員として奔走努力し、創立後第1回の取締役に推薦せられ、斯界の重鎮として嘖々たる令名ありき。君は其長男にして夙に家督を相続し、既に三男三女の児を挙げたり、其学歴と称すべきは専ら之れを家庭に於て為し、初め師に就きて漢籍を修めしかど、別に成規の学業を履むことなくして多くを独学自習なし、終に今日を成せる希有の天才なり。長ずるに及び父君の意志を享けて銀行家たらんことを志し、明治33年を以て県農工銀行書記となり、爾来十有七余年の長きを孜々として鞅掌精励し、現に其計算主任として信望甚だ厚きものあり。而して君の家は代々資産家を以て称せられ、多数の地所及家屋を所有して其生活甚だ富裕なり。資性温厚篤実にして恭謙、極めて義理人情に厚く、又交際に長じ和歌及園芸の趣味あり。清秀端正なる要望、従容閑雅なる風采を有し、人格高潔なる好紳士なり。
沖縄県人事録 (編集と抜粋)


http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50102

この人は山里永吉の父ではないかと思います(参照:山里永吉関連)。
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楚南明徳

大正5年の沖縄県人事録から。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からで、切り出して画像加工してあります。

楚南明徳
実業家
那覇区久米町1ノ9 電話15番
君は明治23年を以て那覇区久米町に生る。亡叔玉氏の長男にして兄弟5人あり、家は代々同地の旧家を以て知られ、久米の楚南として其名区内に冠たり。明治38年を持って沖縄県立中学校に入り、其4年を修業せし時半途退学して東京に出で、最初青山学院に学び後転じて私立日本大学に入れり。爾来1年半にして家事の都合上退学するの止むなきに至り、直ちに帰県して其家督を継承せり。君は夙に実業界に活躍せんとの志あり、大正元年を以て将来最も有望なりとせる阿旦葉帽子製造業を開始し。爾来工場を新設して専ら製造に努め、其販売に力を致して漸次拡大し以て隆盛を見るに至れり。大正4年6月沖縄警醒新報社を創立して其社長となりしが、同年秋其関係を断ち、今や更に新事業を画策しつつあれば、其前途や蓋し刮目に値すべし。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50102

この人はおそらく久米村人(くにんだ)ですね。

関連:グダグダ(β) 阿旦葉帽子会社と軍人遺族救護 (明治38年の新聞記事に楚南叔玉の名がある)

上原仁徳

上原仁徳
1880(明治13)年〜没年不詳。
那覇区垣花2丁目29番地に生まれる。1896年那覇高等小学校卒業。卒業後父次郎に追従して国頭と那覇を往復して藍の売買に従事する。その後、1904(明治31)年7月12日に僅かな資本を持って宮古島へ渡り寄留する。初め雑貨店を経営するが、後に砂糖委託販売業を開始して巨利を得る。(中略)
宮古に寄留して10年余、上原は巨額な富を築き上げ、那覇区の東町にも店を開いて繁栄、那覇区会議員となって、那覇区政にも尽力貢献した。
平良市史 第8巻 資料編6 p202(抜粋と編集)


宮古島での砂糖委託業に成功した人ですね。
1904(明治31)に来島してから10年余りで富を築いて東町にも店舗を持つ、ということですから明治の終わりごろには那覇に店舗を持っていた事になります。
大正5年の沖縄県人事録もほぼ同様の内容になっています。

宮里辰雄

昭和12年の沖縄県人事録から。

宮里辰雄
宮古商会取締役支配人
日本石油会社那覇油槽所主任
那覇市東町2ノ31
君は明治27(1894)年を以て那覇市垣花町に生る。現在株式会社宮古商会取締役支配人並に株式会社日本石油那覇油槽所主任たり、少壮事業家として本県実業界を風靡す。嘗て那覇市会議員に当選し市政壇上に獅子吼したることもあり。昨今では只管業務に専念し居たりしが、昭和12年推されて再び市会議員に当選し現任中なり。傍ら那覇商工会議所常議員に推され、実業界及政界に於ける其の地位は着々堅実な歩みを遂げ、大成を期されて居り、殊に本県漁業の南進については一見識を備へ夙に君の主張するところにして今後に於ける遠洋漁業の発展には君の慧眼に俟つもの多しとされ将来たるや蓋し刮目に値すべし。趣味読書。
【家庭】妻ヨシさん(41)、嗣子辰彦君(21)、次女靖子さん(13)、次男喜三君(11)
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


平良市史の宮里三郎の項目に名前が出て来ますので抜粋します。

当時の商業界には2つの流れがあった。宮里三郎(山小百貨店)を中心とする垣花商人、それに大野八十介、渡辺覚之丞らの内地商人一派で、彼等は早くから宮古に来て相当の資産を作り商売繁盛していた。宮里三郎、大野八十介、渡辺覚之丞、上原仁徳、金城三郎、金城清一、宮里辰雄らは宮古商会をつくり那覇に支店をおいて石油、漁業用品、材木など殆ど独占していた。
平良市史 第8巻 資料編6 p423(抜粋と編集)


りうぼう(琉球貿易)の宮里辰彦さんの父のようです。
参考:グダグダ(β) 宮里辰彦  (戦後の人事録での本籍が東町2の31で同一)

宮古島の本島出身商人

「平良市史 第8巻 資料編6(考古・人物・補遺)」から沖縄本島出身の商人をピックアップします。表記は<名前|出身地|職業(生没年)>ですが、これらの人の中には宮古島以外でも経営などに携わっていた経歴を持つ人がいますので、職業の項目は宮古島でのものに限りません。
那覇での経歴がある人などは単独項目で取り上げたいと思います。

上江洲栄徳|東|教育者、上江洲商会、首里無尽宮古支店相談役、宮古民友新聞理事、宮古商工会委員(1883〜1955)
上原仁徳|垣花|雑貨商、砂糖委託販売業、宮古電燈株式会社、那覇区会議員(1880〜没年不詳)
上原松栄|上之蔵|沖縄製糖、みやこ無尽、アダンバ工業KK、中央倉庫、海産物輸出(1899〜1979)
神元繁宜|那覇|塩、煙草、上布、日用雑貨店、酒造業(1891〜1948) 参照
瀬名波進|久茂地|教育者、警察官、宮古民友新聞(1883〜1947)
平良真宜|垣花|砂糖商、宮古倉庫会社、町議(1890〜没年不詳)
宮里三郎|垣花|実業家(1874〜1945) 参照
宮里忠一|垣花|山忠金物店、宮古朝日新聞(1897〜1942) 参照

源河朝善|首里|砂糖、源河商店、三共商会、宮古通船監査役、町議(1887〜1945)
野村安重|首里|酒造、映画館、旅館、料亭(1888〜1934)


参考:グダグダ(β) 大正年間の宮古島平良における商店
関連:グダグダ(β) 宮古島の他県出身寄留商人

小嶺幸之

大正5年の沖縄県人事録から小嶺幸之さんです。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫からで切り出して画質調整してあります。

小嶺幸之
八重山炭坑事務所主任
沖縄県士族
明治4(1871)年を以て那覇区字西に生る。士族故幸通氏の長男にして同29年家督を相続し、現に長男幸申の外、庶子たる次郎、三郎及千代、八重子等の児あり。夙に普通学を卒へて爾後専ら実業的修養に努め、弱冠にして既に家業たる漆器商の経営に当り、拮据勉励して漸次に隆盛を極め、県下屈指の製造場として信望高かりしが、遂に数年前を以て業を廃し、現地に壮麗なる家を新築して之れに移転せり。其前広運株式会社常務取締役に推薦せられて多年を其職に精励せしが、現に沖縄土地建物株式会社取締役及八重山炭坑会社取締役の職に在り。又曩[さき]に丸一商店の事業を引き受け支那福州に於て製茶業を営み、近時八重山炭坑の末広丸を以て石炭を香港に送らしめ、其復航には製茶其他南清貨物を積載して之れを輸入し、南支貿易を盛んに奨励しつつあり。
(那覇区西新町3丁目 電話225番)
沖縄県人事録/楢原 翠邦編 (抜粋と編集)


大物ですね。

関連:グダグダ(β) 小嶺漆工場/小嶺幸之  (沖縄県那覇西村十八番地 小嶺漆工場)

翁長松

「沖縄現代史への証言/新崎盛暉編」から引用します。この本はインタビュー集で別々の話者の話をまとめたものです。
引用部分は「明治、大正、昭和の社会相」で宮里栄輝さんがインタビューされています。

いわゆるイリチリー(常時雇い人)といっておりましたがね。それがうちに泊まり込みでずっと農業をやってくれていました。その連中はいまから考えるといろんな人がいて、那覇なんかで食いつめた連中がうちにきて、「イリチリーにしてくれんか」と言って、そして1年も2年もおりましたよ。
畜舎の低い2階に寝泊まりしておりました。休んだりするのは、居間の続きのそばの女中なんかが寝泊まりする部屋でした。賃金も払っておったようです。変な話だけれども、2、3年イリチリーをしておって後に乞食の親分になった人がいます。その人は今の瀬長亀次郎氏の住所の近くの古波蔵の馬場に家があった翁長松という人でしたが、怠け者で、その人がよく「金を借してくれ」とか何とか言って「またか」と小言をしょっちゅういわれていました。
あの頃は、那覇のいまの料亭「左馬」の近くにバクチャーという洞窟があって、岩の下がほら穴みたようで、そこはちょうどいい泊り場所なんです。そこに何人かの乞食がすんでいましたがね。そこの親分で、同宿の乞食仲間からピンをはねるようでした。そして、その翁長松という人は、時々、自分も市場なんかを廻って物をもらいに歩いておったが、洞穴内ではずっとピンハネを続けていたらしい。私いっぺんその翁長松を訪ねていったことがありますがね。そうしたらね、その人は目をキョロキョロしておったが、私が「マチューシー」と呼んだら「だれか」と聞くもんだから「私だよ」と言ったんです。そうすると、その翁長マチューという人は泣いて、「マチューシーはこんなになって…」と懺悔みたようなことを言っていましたがね。そしてあの時50銭くれたら他の乞食も寄ってきて私に哀訴していましたがたちまち翁長に一喝されて引き下がりました。
私が24、25ぐらいの頃ですね。私は幼い時その翁長という人にナイフを買ってもらったりしてずいぶん可愛がってもらいましたからね。
「沖縄現代史への証言」明治、大正、昭和の社会相/宮里栄輝 p48、49(抜粋と編集)


宮里栄輝さんは1898(明治31)年生、船越義彰さんは1926(大正15)年生。

バクチャヤーといえば(略)頂上は芝生が程よくはえ、三月三日のお重びらきには最適な場所であったが、下はガマで、そのなかには、那覇中の乞食が集まり天露をしのいでいた。翁長松(オナガー・マチュー)という親分がいて、乞食達から家賃ならぬガマ賃を徴収していたという話がある。ぼくは、翁長松の顔は知らないが、彼が死んだ時、新聞に報道されたそうだ。
なはわらび行状記/船越義彰 p69、70
グダグダ(β) ムヌクーヤーテーソー


オナガマチューは古波蔵に住んでいたが身を持ち崩してイリチリーになり、最後は物乞いの大将となり昭和の初期頃に亡くなったという感じになるでしょうか。
死亡記事などが探せれば後で追加したいと思います。

宮里 松

宮里 松
砂糖、米穀商
那覇市垣花町3ノ6
慶応元年那覇市垣花町に生まれる。青年時代より宮古島に渡り奮闘努力遂に巨万の富を得て今日に至れり。歯齢70有余歳、今なほ壮者を凌ぐ気概あり、米穀砂糖共に自ら市場を往来して買付に当り率先して繁務に没頭せり。
【家庭】カマドさん(明9)、長男三郎君(明35)、次男新吉君(明36)
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


宮里三郎は明治(1874)年、こちらは慶応元(1965)年ですから10歳くらい違います。
垣花出身で宮古で成功した宮里、というところまでは共通なんですが関係はどうなってんでしょうか。

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