沖縄県人事録(昭和12)から当間重民の項目を引用します。
酒造業 當間重民
那覇市垣花町2ノ4
由来本県実業界に学閥の士甚だ少く、これ本県実業界が目覚ましき発展をなし得ざる一因なりとまで称せられる。茲に於いてか當間君は学識才腕兼備の実業家として、斯界の要求せる恰好の人物たり。君は明治33年を以て那覇市若狭町に生る。大正7年沖縄県立第一中学校を卒業し、進んで早稲田大学高等師範部英語科に学び、同14年同校を卒業して一年志願で入営し陸軍歩兵科少尉に任官す、満期除隊後は酒造業に従事、傍ら消防組本部小頭このほか在郷軍人関係2、3の公職を有せり。酒造業に着手せしは昭和10年3月にて、創業日浅しといえども業績見るべきものあり特に県外輸出に対し最新の注意を払い、品質の向上と販路拡張に努力して一躍声価を高めて居り、家業逐年隆盛の一途を辿り居れり。資性温良にして恭謙、然も情誼に熱く思慮頗る周密、大成を期待される青年実業家なり。趣味読書、洋楽。後年の那覇市長も昭和12年では新進の酒造業者です。
同じページに兄の当間重剛の項目もあり、兄弟揃って顔写真があるのですが印象がまるで違います。顔の作りは確かに一緒なのですが、兄の強面と違って弟の重民さんは穏やかな顔をしていて、豪腕でならした兄と市長在職中に苦労して亡くなられた弟の運命の差まで感じさせます(妄想)。
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