とりあえずweb上にあるプロフールをまとめてみます。
大嶺政寛
1910(明治43)年〜1987(昭和63)年、那覇市久米生まれ。二中、沖縄県師範学校本科二部(1年)卒。沖縄第二中学などにつとめる。昭和8年春陽会展初入選以後,半世紀にわたって沖縄独特の赤瓦屋根の風景をえがきつづけ,「赤瓦屋根の政寛」とよばれた。沖縄民芸協会会長。県内で良く目にする風景画の作者です。
ここからが本題なのですが、
オランダ屋敷 2で引用した「美麗島まで」の作者である与那原恵さんの著書「わたぶんぶん」に大嶺政寛さんの妹さんが出て来たので引用します。
「あれはね、兄貴の絵だよ。兄貴は絵描きさ。大嶺政寛というんだけどね」
「兄貴はあんたの大叔父さんの南風原朝光とも仲がよかったんだよ。兄貴やチョーコーの画家グループが戦前の那覇にあってさ、あんたのお母さんの里々ちゃんもそこにいてわたしも知ったんだよ」
おばちゃんは那覇の久米で生まれて第一高女を卒業。後輩たちは「ひめゆり部隊」として若い命を落とした。そののち代用教員をへて上京し、会社づとめをしたり、洋裁で身をたてたりしながら暮らした。戦後はおばちゃんのお姉さんが嫁いだ沖縄出身のひとが新宿で経営する沖縄料理の店を手伝っていて、四十なかばになってじぶんの店「壺屋」をもつことができたという。
わたぶんぶん p45、46 (抜粋)戦前の画家グループと久米出身ということで無理やり取り上げてみました(笑)。「わたぶんぶん」は古波蔵保好の「料理沖縄物語」へのアンサーとなっています。またおばちゃんに関しては「サウス・トゥ・サウス」により詳しいエピソードがあります。
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