1950年の人事録からパラダイス通りの宮城譲治さんです。
宮城譲治
ニュパラダイス経営主
那覇市10組[ママ]6組
氏は大正2(1913)年を以て首里市汀良町に生る。郷学を卒へるや青志おさへがたく進んで関西大学に学び之を卒へるや迎えられて日活映画脚本部に入り後大阪朝日新聞社記者となり其敏才は認められて将来を属目させられしも期する所とありて之を辞し新大阪ホテル、レストランアラスカ、兼大阪商業会議所食堂の支配人として采配をふるい阪神地区に名声を轟かす、昭和19年12月南洋に渡航シンガポール東亜交通公○南方ホテルれい明支配人として活躍終戦となり 1946年2月帰郷し米軍部隊の通訳として郷土復興に貢献し同年5月ニュパラダイスを開設、オキナワ唯一のダンスホールとして一般に知られえい業隆盛を極め今日に至る 氏は社交に長じ商才に秀で内外の信用大なり
琉球人事興信録(1950)参考:
グダグダ(β) パラダイス通り参考:
グダグダ(β) 戦後の那覇の区ニューパラダイス経営者は下記アドレスの「オキナワ・ストリートウォーカー」では伊藝教永さんとなっています。
http://www.okinawajoho.net/pc/street/paradise/index.html「那覇市旧跡・歴史的地名地図」では山形屋裏の位置(
ストリートビュー)にニューパラダイスがあった事になっています。オキナワ・ストリートウォーカーも伊藝さん本人にインタビューしていますし確かなものだと思いますが、この食い違いがなぜなのかはわかりません。
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