具志堅得助
沖縄相互銀行頭取 沖縄新聞社社長
明治38年生
那覇市10区5組
氏は那覇市西新町の出身で大正9年2月に沖縄農工銀行書記補として勤務、大正12年沖縄産業銀行書記に就任、昭和2年南陽薬品株式会社入社、同7年に退職して事業界に入る。同年硝子製造業鉄工業を経営し事業は着々と成果を挙げ他社を圧倒して躍進の一路を辿る。昭和7年に那覇市会議員に当選政界に第一歩を踏み出す。1947年那覇市市政委員、同年那覇市市会議員に再選議長に推薦され、又民生委員を命ぜらる。同年沖縄群島議員に当選す。現に沖縄相互銀行頭取の他に沖縄火災保険会社社長、紅房社長、那覇薬品取締役、沖縄旅行社取締役、沖縄新聞社社長、第一倉庫会社監査役、沖縄交通会社監査役、那覇陸運会社監査役、琉球日産会社監査役、琉球商工会議所理事等の要職にある。
(中略)
先に「沖縄朝日紙」の社長に就任するや直ちに「沖縄新聞」と改題し、巷間伝はる左傾新聞としての誤解を一掃し、同紙をして不偏不党真に社会の木鐸としての使命の遂行に万全を期し不動の身構えを示された。好漢具志堅得助氏の存分の活躍が一層期待される。
琉球紳士録 1962 大宜味朝徳編 (抜粋と編集)戦前からの大物ってとこでしょうか。
(自分的に)面白いのは後段の左傾新聞ってとこなんですが、大宜味朝徳編集の人事録ってとこを考えると味わい深いものがあります。
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