国場のくらしでの城間さん(明治43年生)の証言に獣骨を肥料として使うという話が出て来ます。
クエーフニ(肥料を積む船)に畑の肥料をのせて那覇からも運んで来たよ。汲み取りしたものさ。国場川から運んだ。また那覇なんかで大きな行事があったら豚のソーキ骨をもらいにいくこともあった。骨は粉にするといい肥料になるからね。
なは女性史証言集 p99屎尿と獣骨ですね。そのほか自家製の山羊の肥も使われていたようです。
明治40年の琉球新報に獣骨販売業についての文がありますので引用してみます。
「市井雑観」 獣骨販売業
この営業者は国場、仲井真辺の者最も多かりしが、多く無鑑札者で公然と許可を受けたる者は7人なり。
琉球新報 明治40年6月許可制で鑑札が必要だったこと、国場と仲井真で多く獣骨が扱われていたことがわかります。
那覇市史は屎尿処理をこのように書いています(※ここでの那覇市は旧那覇市です)。
那覇市の中央部や周辺の町は主に小禄村、豊見城の農家が処理に当たり、北部の泊方面は真和志村上泊、安謝、銘苅、真嘉比または浦添村の農家が処理してくれたものである。
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(那覇)市の中央部は農家が数件と口答契約し随時汲取をなしていたが、もとより金銭による汲取料金を支払うことはなく、無償であり、逆に農家は時折野菜を届けていた。
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随時汲み取っていたので屎尿処理に悩まされることはなかった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p419 (省略と編集)PR